宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

神社本庁総長地位確認訴訟

2023年6月23日   投稿者:宮司

神社本庁総長の地位確認訴訟の東京高裁の判決が出た。

 神社本庁正浄化を主張する「花菖蒲の会」の期待に反して、判決は、総長の地位は、役員会の議決を最優先とするものであり、統理の指名権限は役員会の議決に拘束されるとして、神社本庁の最高権威である統理の指名権を神社本庁役員会の議決の下位に位置づけるものであった。従って正規の総長不在が続くこととなった。 そしてこれは残念ながら、私の想像通りであった。

 なぜか?

 現在の日本は民主主義国家だからである。神社本庁の権力構成は、権威主義に基づいている。すなわち、上席の地位のものは、下位の地位に対し優越的な権力を行使できるとすることが前提となっている。ロシアや中国の体制と同じである。もちろん戦前の大日本帝国もそうである。

 このような体制は、上位のものが高潔な人格を持ち、誤謬のない判断を下す場合に極めて効率的な体制であり、一方、腐敗した人格で誤った判断を下すときには、修復不可能な打撃を組織にもたらす。神社本庁は権威主義であるから、当然、統理が最高権威であり、最高権力者であって、統理が総長を指名したならば、総員はそれを尊重しなければならない。

 しかし、民主主義に基づいて権力構成をする社会は、常に、上位の権力者の人格が腐敗し、誤った判断を下す可能性を認め、これを防止するために、万一権力者が過ちを犯したら、下位の人々が総意によってその権力者から権力を剥奪することができる装置を組織に内在させている。それが法治であり、立憲主義である。そのためには、常に権力は責任と一体のものとして考えられなければならない。 トマス・ジェファーソン:「信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる」

 このように考えてくると、昭和51年、神社本庁の庁規の一部を改正し、「統理は、神社本庁の象徴的地位とし教団の最高位に在り、総長が法人の代表者となって俗事一切の責任を執る。」としたときに、権限と責任の分離を行なってしまったことは、重要な変更であった。これは、「いままで統理の役割は教団の代表役員でもあるため、法人業務上の責任もすべて統理にかかり、特に裁判問題などが起った時、しばしば統理が法廷にたたされるなどのこともあるため、かねてから『統理にそのやうな法人運営上の実務責任を負はせるのはまづい』との意見があった。」ためである。

 しかし、民主主義的に言えば、これは統理の最高権力の形骸化であり、実態としての神社本庁の最高権力が総長に移転した瞬間であった。

 このように考えると、民主主義の世界に生きる現代裁判官たちが、総長を推薦する役員会の議決が、統理の指名権に優先すると考えたのも当然であろう。

 しかし、権威主義のシステムを自明のこととしている統理派の神職たちは、これを理解することはできない。否、神社本庁の職員たちも、この判決理由に驚いているに違いない。なぜなら、庁規等の本庁規則を細かく点検すれば、「議を経て」と「議決を経て」は、明確に区別されて使われているからである。現に、私の神社が規則の一部変更を神社本庁に申請したおり、その中で私は「議決を経て」という表現を使用したが、本庁は「議を経て」と修正を命じてきた。その事実を見れば明らかである。

 要は、神社界の規則や常識が現代の日本社会の常識とかけ離れていることが、皮肉にも、今回の判決をもたらしたと言える。これを修正するには、今回の事案が収まったのち、神社界の規則や体制を現今の日本社会に合わせて根本的に見直すことが必要であるということだ。

 幸いにも神社本庁の最高議決機関である神社本庁評議員会は、過半数が統理派であり、神社本庁の正常化を願っていると聞く。1日も早く、神社本庁評議員会で統理の指名を尊重することを議決し、正常化に向けて進むことを期待したい。 (2023/06/23)

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