宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

民主主義と資本主義の関係

2022年8月14日   投稿者:宮司

 最近、民主主義と資本主義の関係を曲解したような論評が目につく。

 本来、この二つは、近代思想から生まれた双子のような制度であり、決して対立するようなものではない。補完関係にあるのだ。いうまでもなく、資本主義は経済システムであり、民主主義は政治システムである。

 資本主義という経済システムは、「人間がそれぞれ個人として自由に経済行為をすることができる」ということを前提につくられている。近代以前の社会では、身分とか血筋によって経済行為への関与の仕方が異なっていた。解釈の仕方によっては、それは略奪であったり、徴税権の乱用であったりしたが、元々、身分によって社会行為が制限されていたために、「自由な経済行為を行う」という概念はなかったのである。

 確かに人間は能力に差異があるために、自由な経済行為の中で、能力のあるものは富を得、能力のないものは富を失う。すなわち貧富の差が生じていく。初期の資本主義は全く規制のない自由な市場において順調に経済が成長していくと仮定したために、好景気と不景気の波が極端となり、また、労働者の環境が劣悪なものとなってもこれらは放置された。

 したがって、社会の中で不利益を被った人々の中から、あるいは社会正義の観点からこの状態を是正しようと考える人々の中から、社会主義や共産主義の思想が生まれた。それは「個人はその生活の基礎となる富を平等に保障されなければならない」という主張を基礎に置いていた。しかし一方、それは「有能な指導者が大衆を導き、大衆は指導者に盲目的に従う」という権威主義を内在したものであった。それはあたかも長老に導かれた伝統的なムラ共同体を国家規模で作るようなものとなり、こういった社会はすでに資本主義が発達し、個人としての経済行為が主流となった先進国では採用されることはなく、結果的に資本主義が未発達の地域で実現した。すなわちロシアや中国であり、現在もなお伝統的な共同体を内在させている発展途上国でそういった権威主義が採用されるのは、反個人主義、反近代主義が受け入れられやすい土壌があるからである。

 イギリスやフランスのような資本主義の先進国では、共産主義の思想が広がりはしたが、社会の形として受け入れられなかった。なぜか?共産主義は計画経済を主張し、個人の自由な経済行為を規制するので、資本主義の旨みを知った国々の人々には受け入れられなかったのである。その代わり、政府に市場操作の権限を付与し、労働者の人権を認め、そのための法律を整備することを通じて、修正資本主義の経済システムを実現し、政治的には、人権平等の観点から、民主主義社会を推進したのである。民主主義は、個人の自由な政治的選択を保障するので、資本主義とうまく噛み合ったのだ。

 民主主義は啓蒙思想の中で作られた。啓蒙思想は「人間は、生まれながらに自由で平等である」という理念を前提として作られている。実態は、人間はそれぞれ能力に差があり不平等であるので、これは思い込みにすぎない。前近代の人間たちは、互いに闘争し、能力に応じて、勝ったものは負けたものを支配し、略奪し、富めるものとなった。人間は決して「自由で平等」ではなかった。しかし、産業革命と共に著しい経済成長が始まると、略奪によらず、分業と協働によって社会全体の富を増加させることが可能となり、人々が協力して全ての人々が一定の富を得ることができる社会を作ることが可能となると思われた。そこで資本主義が発達し、社会主義や共産主義も生まれたのである。啓蒙思想は過去の身分制社会の不公平を無くし、個人を基礎とする自由な政治経済行為を可能とするために、思い込みの理念を採用し、社会契約の理論を生み出し、現在の資本主義と民主主義の骨格を作ったのである。

 このように理解すれば、民主主義と資本主義は共に近代社会の要であることがわかる。そして、近代社会は、人々が協力して資本主義によって富を豊富化させ、民主主義によって富の分配を平等化するものであると結論づけることができる。

 もちろん、富の分配の平等性は、社会福祉政策や徴税率、税金のシステムによって保障され、一方、自由で参加の機会が平等に保障される経済行為は貧富の差を生み出していく。社会がどちらを重視するかによって、格差社会の程度が決まってくる。現在、日本や中国、アングロサクソン系の国々では、格差社会が広がり、その他の欧州先進国ではそれほど広がっていないのは、このような政策の違いによるものだ。

 また、経済先進国では、近代化、都市化が進み、それは伝統的な共同体である家族やムラ社会の崩壊を促し、人々の個人化と少子化が進み、高齢化社会が実現する。従って経済成長が鈍化する。このような社会を再び経済成長の軌道に乗せるためには、発展途上国から生産年齢世代を移民として移住させることが唯一の解決策となる。もちろん新しい産業分野の開発や、ITやロボット技術を活用した生産の合理化も一定の効果はあるが限定的なものである。移民の流入は社会不安を煽ったり文化摩擦を生み出すが、これらは法律の整備によって対応されなければならない。特に、移民の人々が経済参入するに際して、機会は平等に与えられなければならない。世界中で、人々が自由に出入りし、自由に働くことができるようにすることが、地球上の人口増加を早目に食止め、環境や資源に対する負荷を軽くすることにつながる。

 人間は、結局、能力の差異はあるが、全体として生き延びるためには、互いに協働して生産し、富を分かち合わなければならない。そのためには、全ての個人が、あるべき社会の姿を考え、個人の利害以上に全体の進歩を考えて行動することが必要となる。そのように振る舞うことによって、大衆社会の陥るポピュリズムの罠からも逃れることができる。つまり、個人化した社会の中に、互いに信頼し合うことのできる小さな意志共同体を無数に作り出し、その中で、個々の社会意識を高めていかねばならない。いわば社会の二重構造化が今後必要になると考えられる。 (2022/08/14)
 

世界-日本-経済