宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

日本型民主主義と中国型民主主義

2021年12月6日   投稿者:宮司

 最近、佐藤優氏の評論を目にする機会があった。そこには、大東亜戦争の最中に国民総動員の教育書として成立した「国体の本義」の中には日本型の民主主義について記されている、と主張されていた。調べてみると、氏は2009年に「日本国家の神髄」という著作を世に出し、「国体の本義」を再評価されている。それ以来の主張であろう。

 実は、日本型の民主主義という表現は、神社界では極めて当然の主張である。

 聖徳太子の「和を以て貴しとなせ」、あるいは五箇条の御誓文の第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」などを以って、日本型の民主主義はここに神髄がある。「大和」が大切であり、個人主義を基本とする欧米型民主主義は日本に合わないので、採用するべきではない、といった論調が常識となっている。「国体の本義」の中でも、同様の主張がなされている。

 さて、現在、米国は、オンラインで「民主主義サミット」の開催を予定している。110カ国の指導者が招待され、日本もその主要国の一つである。これは、米国が「専制主義国家」と位置づける中国やロシアなどと対抗する狙いである。

 これに対し、中国は、中国には、中国型の民主主義が強固に存在しているとして、反論をしている。

 この中国型民主主義とはどのようなものであろうか?毛沢東の頃には、「人民」と「国民」を使い分け、共産党の指導に反する「国民」は「人民」ではなく、「人民の敵」となり、国家を指導する共産党が保障する参政権は「人民」にのみ与えられ、それが民主主義だといった詭弁が使用された。また、現在も基本的には地域や職域を基礎とする直接選挙を基礎として、間接選挙を積み上げ、権力構造を構成するという方式がとられている。その直接選挙にあっては、農村と都市部の違いで1票の重みが異なる差等選挙や協議による立候補制で常に共産党中心となる制度など、民主主義とはかけ離れている。しかし、現在はまた、少し様子が異なる。選挙制度の問題点以外に、近年の中国政府が標榜する中国型民主主義の価値観は、どうも「日本型民主主義」と同根であるように見える。

 この日本と中国の二つの型の民主主義に特徴的であるのは、第一に、個人主義を否定し、全体に対する同調意識を大切にするところであり、第二に国民(社会の成員)全体の幸福を追求しようとするところである。 

 これは、何を基礎とする考えであるか?それは、「儒教」である。儒教の最高の徳目である「仁」は、他者に対する思いやりの心を強調する。それが、個人の我を捨てて、全体の意見に同調することが良いとする考え(大和)を導く。また、「仁政」は、「徳」の高い指導者が、思いやりの心で、人々に幸福を与え、指導するということを善とする。

 古事記に記された仁徳天皇の故事は、まさに儒教である。聖徳太子の言葉も儒教である。そして、中国の一帯一路は、欧米的な覇権ではなく、仁愛に満ちた王道の政によって世界を導こうとしているのだ、という現代中国の主張も儒教に他ならない。もちろん、実態は、欧米以上の無慈悲な覇権主義が一帯一路の正体である。また、大東亜共栄圏の主張は、一帯一路と同様の儒教的カモフラージュであり、アジアへの侵略を正当化するために使用された。当時その論理で侵略された当の中国が、今、同様の論理を駆使して、世界へ挑戦し、中国型民主主義で世界のリーダーとなろうとしているのは、まさに歴史の皮肉である。

 すでに、本ブログの「儒家社会主義に向かう中国」で指摘したように、現在の中国は、かつての大日本帝国と同様の論理と欲望により突き動かされている。これを正常化するのは、世界の課題である。大日本帝国の無謀な挑戦が、民主的な手続きを経た国民の総意で行われたわけではなかったように、現在の中国の暴走も、中国国民の意思ではない。偏に指導者の誤った考えの帰結である。

 このように、指導者が間違った考えを持てば、暴走してしまうというのが、権威主義や全体主義が民主主義とは相容れないものであるという証拠である。どのようにカモフラージュしようとも、個人を基礎に置かない民主主義というものは存在しない。ここが大切である。一方、個人を否定するところから、権威主義や全体主義が発生する。

 政治システムは、効率性や合理性を重視すれば、権威主義や全体主義に行き着く。個人を大切にする民主主義は、意思決定に時間を要し手続きが煩雑となるから、多くの発展途上国が、政治決定の効率性の偏重のために権威主義となっている。

 また、個人主義が発達した社会では、諸個人が孤独となり、共同体的な人間関係を求める心が、国家社会全体を共同体化しようとする志向性を生み、それがポピュリストの政治家による権威主義、全体主義の擬似共同体国家に繋がる。ヒットラーのナチスドイツ、ムッソリーニのファシズム国家がそうである。また、ソビエト連邦、毛沢東の中国などは、当初からマルクス主義によって階級消滅後の共同体を志向した擬似共同体国家である。また、戦前日本の国家社会主義、現在のイスラム原理主義の国々も、効率性と同時に擬似共同体を志向した国家である。

 私が、以前から、日本人はまだ、民主主義を理解していない、と主張するのは、ここに原因がある。一つ間違えば、日本型(中国型)民主主義を主張して、反欧米の国家に様変わりしてしまうであろう。

 これを防ぐには、今からでも遅くはない。学校教育の中で、民主主義の基礎をしっかりと教えて、自立した個人を多数作り出すことに努力すべきだ。戦後の学校教育は、日教組による、共産主義礼賛の教育から、自民党の教育改革による愛国主義、公共尊重主義の教育に代わった。これは儒教主義である。つまり、一貫して、真の民主主義を教えてこなかった。常に権威主義の国家を志向していたのだ。しかし一方、個人の自由な活動を最大限尊重する経済政策は、近代化の成熟とも重なって、国民に個人主義の悪しき一面である利己主義を蔓延させた。これは、個人主義の正しい理解によって是正されなければならないところを、儒教主義の教育によって「民は由らしむべし」的な解決を図ろうとしたことが、現在の日本人の民主主義意識の低さにつながっている。

 もう一つ言えば、今は、男女同権が常識となり、社会への女性参加が声高に叫ばれるようになったが、実態は、国際的には、女性の社会参加の程度は、日本は先進国中最低である。それは何故か?これも儒教偏重の社会意識にある。日本人は、無意識に儒教倫理を体現している。その典型が、皇室の後継問題で、頑なに男系を主張する意見である。元々、日本の最高神は、古事記によれば、天照大神である。この神は夫を持たない。つまり今風に言えば、シングルマザーなのだ。そして、皇室の祖先神である。これが、なぜ、男系が皇統の基本とされるようになったか?儒教の男尊女卑の考えが根にあるのだ。現代の日本で、女性の社会参加が遅々として進まないのもこの男尊女卑という儒教的思考が根にあるからだ。

 日本人は、いい加減、儒教から離れて、欧米型の、自然権としての「自由」を人権の基礎に置き、社会契約、すなわち全ての成員の合意による法律によって国家社会を形成するという、民主主義の基本を弁えるべきである。 (2021/12/06)

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