宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

民主主義とは何か

2021年5月4日   投稿者:宮司

 本ブログでは、民主主義についてしばしば説明をしてきたが、まとめて解説をしていないので、この辺で、民主主義について基本を押さえておこう。

 民主主義の始まりは、啓蒙思想にある。18世紀から19世紀にかけてイギリスとフランスで発展した思想である。基本は合理(理性)主義だ。丁度人間の理性が多神教から一神教を生み出したように、この時期、理性によって人間と社会を考えることが広まり、啓蒙思想を生んだ。

 啓蒙思想は、人間を個人の視点から出発して、社会の仕組みを考えていく思想でもある。17世紀の哲学者であるデカルトの「我思うゆえに我あり」の言葉通り、「我」から出発するのだ。

 さて、世界に「我」一人しかいないのであれば、「我」は、何をしても自由である。これを人間の自然状態という。何事にも束縛されない。これを基本に人間を考える。自由に振舞うことは、人間が自然に持っている権利である。ここに「自然権としての自由」という概念が生まれる。

 当然のことだが、実際には、人間は、人間の中で生きている。すなわち社会の中で生きている。もし、それぞれの「我」が、殺人や強奪を含め全て自由に振る舞えば、社会は、「万人の万人に対する戦争」状態となり、秩序が保てなくなってしまう。そこで、止むを得ず、お互いに納得の上で、自由権の一部を停止することによって、共存のための秩序を作る。これを社会契約という。つまり、社会契約とは、社会を構成するすべての人間の合意のもとに、自由権の一部を停止する法律を作り、これを遵守することにより社会の秩序を保ち、共存を実現することである。したがって、法律の基本は、規制となる。自由権の制限であるので、「〜してはいけない」が、基本となる。もちろん、逆に見れば、「〜しなければならない」ということになるが、あくまでも、自由の規制が法律の眼目であり、しかも、それは、社会の構成員すべての総意のもとで行われなければならない。法律は社会(国家)の構成員の総意によって作られ、常に吟味され続けるのだ。特に政府の構成を定めた憲法についてはそうである。これを、国民主権、そして立憲民主主義という。

 民主主義の出発点は、個人の意識である。社会を構成するのはそれぞれバラバラな個人であり、それを結びつけるために社会契約がなされ、政府が作られる必要があるのだ。米国独立宣言の起草者の一人であるトマス・ジェファーソンが、「民主主義は”信頼”ではなく”猜疑”に基づいている」と言ったのは、個々人の意識はバラバラであり、悪意と善意が絡み合っているから、それぞれを疑ってかかることによって、より多数にとって望ましい社会が生まれると考えたからだ。社会を管理する”政府”が、社会を構成する多数の人々にとって悪であるならば、それを倒しても良いという”抵抗権”の思想がここに生まれ、フランス革命は斯くして実行された。

 民主主義の政府は、その国を構成するすべての個人、すなわち国民の総意に基づいて組織され、常に正しく機能しているかどうかを国民によってチェックされ続けなければならない。「立派な人物が善意の人々を指導して良い社会を作る」などということは考えてはいけない。つまり、民主主義は性悪説を前提としている。「権力は腐敗する」のである。

 民主主義は、個人の絶対的な自由から出発するので、自由主義とセットになる。自由主義とは、何をしても良いということではない。社会契約で定められた(法律で許された)範囲内で、何をしても良いということである。個人主義や自由主義を法律で規制しようとする議論は、屋上屋を重ねるようなものだ。

 民主主義は、個人から出発するので、市場経済とセットになる。市場経済は、「個人は、自由にそれぞれの個人にとって利益となるように行動する」ということを基本にしている。諸個人の利害はバラバラであるので、それを調整するために、法律が”諸個人の総意によって作られた”政府によって作られる。

 さて、日本人には、民主主義は理解し難いものであるとしばしば書いてきた。その理由を述べる。

 啓蒙思想が生まれる前は、人類は社会の秩序をどのように保ってきたのであろうか?最初は、家族やムラといった小さな社会集団である。こういった集団では、伝統や長老の指導といった、経験が重視され、その積み重ねによって秩序が形成された。次第に小国家のような大集団になると、貧富の差や階層が生まれ、国王や貴族といった指導者層が形成され、彼らによって、秩序を保つための法律が制定されるようになっていく。また、宗教が独特の規律を作り、それに従って社会を構成する集団も出てくる。前近代はこのようにして、指導者が規則を制定して、それを人々に与えることによって社会の平和が保たれた。特に、初期の小集団は、基礎共同体であり、そこでは、相互の信頼や愛情によって人々が結び付けられた。

 日本や中国のような国では、多神教が文化のベースであり、そこでは、価値観が多様であるがゆえに、究極的な合理主義が生まれ難い。前近代的、共同体的な人々の感情的な連携が優先し、法律は自分たちが作るものというより、指導者によって与えられるものという感覚が強い。

 つまり、経験的な社会構成は、前近代的な意識を残し、そこでは、「自然権としての自由」などという抽象的な概念は生まれ難い。これが、日本人や中国人にとっては民主主義が受け入れ難いという理由である。

 また、民主主義は個人意識を基礎とする。それは近代化によって経済が成長し、基礎共同体が崩壊して初めて生まれてくる。これが基本である。西欧では、一神教の文化のもとで、早くから究極の合理主義的な思惟が発達したので、比較的早く生まれたのである。現在の日本はすでに近代化を終えたが、同一民族という虚構に囚われ、共同体志向が強いので、なかなか個人意識が生まれ難い。

 しかし、個人意識や民主主義というものは、それだけで社会が安定的に構成されるわけではないことにも注意しなければならない。なぜなら、人間は理性と感情を共に持っている存在であるからだ。感情を左右するのは、前近代的な意識であり、基礎共同体(家族、ムラ)や意志共同体(友人、仲間)で人間を結びつけている信頼や愛情は、もう一つの社会の重要な紐帯である。

 即ち、以前から言っているように、小集団の社会では、前近代的な信頼や愛情が不可欠であると共に、国家のような大集団では、個人主義や民主主義という一見利己的な理性の働きが必要となる。平和で安定的な社会を実現するためには、人々が、この相反する二面を合わせ持って生きていかなければならない。(2021/05/04)

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