宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

国家神道の成立とその背景

2013年1月26日   投稿者:宮司

以下は、IARF世界大会が1996年に韓国円光大学で開催された折に、国家神道についての基調講演として発表したものです。その後、「中外日報」の巻頭に載せていただきました。

 文中に、江戸時代の修験者数が17万人との記述があります。当時の修験者は、世俗の生活をしながら、時に先達となって、人々を山岳に導いていました。この数字は、その後、金峰山修験本宗の田中管長によって随分取り上げていただき、話題となりました。

 国家神道の成立とその背景

国家神道を語る事を神社関係の学者に望むことは難しい。国家神道の言葉そのものが、占領軍による日本研究の中から導かれたものとして、語ることを拒否する態度が原因の一つ、国家神道の概念規定が不明確なため、神道の基本的な属性、或るいは民族のエートスとしての天皇信仰の否定に踏み込むことを恐れることが原因の第二と考えます。もっとも民族のエ−トスといえるかどうかは甚だ疑問ですが。

 私は、学者では無いので、通常知られていない事実を積み重ねて新しい結論を導くようなことはできません。極く常識的な歴史事実の積み重ねによって、全体の流れを説明するといった方法で、国家神道を語りたい。

 最初に国家神道を規定します。明治政府の手によって作り出された、法制度的には宗教でないとみなされた神道の制度と体系を国家神道と呼びます。しかし一般に国家神道と呼ばれるものは、しばしば、日本を戦争に駆り立てた狂信的な神国思想を準備したものとされます。ここでは、それに当たるものは何かと言う事にも注意を持ちたいと思います。

 明治時代は、日本の近代化を遮二無二推進した時代でありました。従って前近代の特徴とも言うべき迷信的な世界観と慣習を打ち壊して、近代合理的な考え方を生活の基礎とすることを促すことが大事でした。

 また、明治は、統一国家としての日本を作り上げることが格別必要とされた時代でした。従って国民に意識統一のためのシンボルを提供すると共に教育を行うことが何よりも必要でした。

 この要求を満たすための手段として作り出されたものの重要な一つが、国家神道であります。

 もう少し細かく見ていきます。

 江戸時代の中頃から、国学という学問が現れます。俗に三大人といわれる、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、あるいは荷田春満を最初にいれて四大人というのでしょうか。ともかくそういった人達が、日本の古典である、古事記や日本書記の研究によって、日本の固有の精神や生活、政治制度に至るまで研究し、復古思想を唱えたことが、封建制度の体制を変革する思想、イデオロギーを準備します。

 ここで、彼らは、現状の日本が、仏教や儒教といった外国の学問に侵されて、本来の日本精神を失っていると考えます。当時の神社は、ほとんどが仏教と習合し、シンクレチズムですね、神社にお坊さんが入り込んで、実権を握ったり、神社には必ずといっていいほどお寺や仏像がくっついていました。これは当時、権現といって、仏教の何かの仏様が、日本の神様となっていらっしゃるという思想が一般的であり、それぞれの神に相当する仏が境内にまつられたり、仏教の神名、言い方が妙ですが、インドの神様の呼び名で神社を呼んだりしていました。そして、お寺には、同様に神社が一角にまつられておりました。これをその寺の鎮守といっていました。私の神社は、江戸時代、境内にお薬師様を斎っておりました。また、山王宮と称していました。山王とは、山王権現、つまり山の霊魂が神として出現したという程の意味です。津島神社は天王、八坂神社は祇園と呼ばれていました。祭神の須佐之男命は、仏教でいう、祇園精舎の守り神の牛頭天王と考えられていたためです。日本では、仏教が、聖徳太子によって正式に国の宗教として認められて以来、本来の伝統宗教である神道、そして仏教以前に大陸から入った儒教とともに、さらに儒教以前に大陸から入ったと考えられる中国の民間宗教としての道教、占いや呪い、そして仙人思想をもっている道教を合わせ、それらが、一千年以上の長い間に渡ってさまざまに習合してきたのです。

 江戸時代の民間の宗教的エートスはどんなものであったでしょうか?私はよくイメージが湧かないのですが、少なくとも神主が主役でなかったのは事実でしょう。仏教は、ご承知の通り、江戸幕府の手で戸籍管理を任され、檀家制度を整備しますので、大変強い力を持っていました。しかし、民衆の宗教的な情念は、私は、山岳信仰、修験に強かったのではないかと思っています。呪術、占い、修行による超能力の獲得、霊界との交流、こういったことを内容とする修験は、明治政府にとって近代化を妨げる迷信の源と見做されたのではないでしょうか。修験宗は明治になって政府の命令により廃止されますが、これは、逆に、修験が民間信仰のなかで如何に勢力を持っていたかの証ではないかと思います。この当時、修験の先達は17万人いたといいます。現在神職が1万2千人、お坊さんの数も、神職の数と大差無いはずですので修験者の多さが理解できます。

 国学は、文献によって、学問を成立させましたので、現実妥当性の薄い結論を導きます。

 当初、倒幕は、国学が提唱した、尊皇つまり天皇への敬愛と攘夷つまり異物の排除という二大思想に貫かれていましたが、結局、明治政府は、開国、という近代化の道を選択しました。しかし、攘夷の思想はその後、臥薪嘗胆、あるいは和魂洋才となって、最後は、日本がアジアの盟主となって西洋文明と対決するという思想に結び付いて行きます。

 一方の、尊皇については、藩毎にわかれていた日本を統一国家とするために、天皇を国の中心に据え、その意味では、尊皇は達成されましたが、国学者の説いた王政復古は達成されず、王道政治ではなく、近代的な法治国家の国家元首としての天皇の名による官僚政治が始まりました。しかし、思想としての王道論(皇道論)は現在もなお神社界や右翼の思想に根強く存在しており、この王道政治と現実の法治との矛盾や意識のズレが、大東亜戦争に入って行く日本政府の無責任体制を作り上げたと考えられます。

 ここで、神社を管理する組織の変遷を考えてみます。当初、神武天皇創業の昔に帰るとして考えられた王政復古は、具体的に、明治元年、世俗政治を司る太政官と並び、神祇官を設置する事から始まりました。しかし、明治4年には神祇省に格下げされ、明治5年には教部省となり、明治10年には、内務省社寺局となり、明治33年、社寺局を神社局と宗務局に分離し、宗務局は後に文部省に移管されます。すなわち、どんどん組織が、世俗政治の組織に比べ、縮小し、下位におかれると共に、神社は、宗教と分離され、内務省の管理下におかれて行くことが判ります。

 明治政府は当初、神祇政策として、祭政一致、神仏分離、大教宣布を大きな国策としましたが、それらの国策を進言した神道の活動家達は、明治3年には政府中枢と対立し、次第に追放されたり、地方へ追いやられたりします。[王政復古の大号令]を起草した玉松操や矢野玄道、角田忠行等がその例です。

 祭政一致は、文字どおり、神祇官と太政官を対等のものとする考え方ですが、近代国家に妥当するはずが有りません。神仏分離は、既に、幕末、神儒習合神道と復古神道の流行により、薩摩、水戸、岡山の諸藩では排仏が行われ、明治元年、神仏分離令が発せられると共に、神社より仏教色を廃する排仏棄釈の運動が起こりました。宮中の祭祀も仏式から神道に変わりました。しかし、当然、仏教側から反発が起こり、特に、長州の討幕派へ資金援助をした真宗西本願寺からの反対に考慮し、僅か数カ月後に太政官は排仏を犯罪と見做す告示を致します。また、別当職の還俗も認められました。

 大教宣布は、三条の教憲(1、敬神愛国の旨を体すべきこと2、天理人道を明にすべきこと3、皇上を奉戴し朝旨を遵守すべきこと)に基づき、天皇が国の中心であり、日本は神の国である事を判りやすく国民に教育する運動ですが、これは、当初、国学者や儒者、神主により行われ、後に仏教界の希望により僧侶をも動員して行われようとしますが、遠からず無理であることが判明し、その後、このような国民教育は、学制の制定と共に、教育勅語と小学校初等教育のなかで行われるようになります。(明治2年宣教使の職制を定める。明治3年大教宣布の詔勅。明治5年教部省設置と三条教憲設定、仏教参加。明治8年神道事務局設置、明治9年黒住教、神道修成派の独立。明治15年神官教導職分離、神官の葬儀関与を停止、この年、神宮教、出雲大社教、扶桑教、実行教、神道大成教、神習教が独立。明治17年神仏教導職の廃止)*神道大教、御嵩教、金光教、天理教を加え、神道十三派という。

 明治4年には、社寺領の上知命令が出され、神社を国家の宗祀として、神宮以下神社の世襲を廃し、神社の社格制度を定めます。又、明治3年、氏子仮改め制度の新設が行われ、氏子守り札が明治4年より実施されます。明治6年には廃止され、近代的な戸籍制度が成立します。

 仏教の大教宣布参加に功績のあった真宗僧侶、島地黙雷は渡欧し、各地の宗教事情を視察し、明治6年に帰国の後、政教分離、信教自由の論を立てます。このとき島地は、建白書の中で「神道は皇室の治教、惟神の道であって、宗教では無い」とします。

 この説は、明治の開明派の政府要人の考えと相通ずるものであり、結局、明治政府は、神道を宗教より独立させ、国家の宗祀として、内務省の管轄下にて制度化することは、先に述べたとおりです。

 明治10年前後の佐賀の乱、神風連の乱を経て、西南の役にいたる間に熱烈な復古主義者は排され、明治12年には「府県社以下祀官祀掌の等級を廃し、身分取扱は一寺住職同様たるべし」との太政官通達が出されます。すなわち、官国幣社と府県社以下は、ここで、確実に分離されていくのです。明治17年には神官の宗教的行為が禁止されます。しかし、府県社以下の神官の葬儀関与などは黙認されて行きます。

 ここで、神道事務局神殿に奉斎する祭神の論争について触れておきます。

 明治12年、神道事務局の神殿に幽世の主祭神出雲の大国主神を合祀するかどうかで神道界に大論争が起こりました。当時は神官が神道を国の宗教として認めさせようとしていた事がこれで解ります。

 この後、神道のセクト的分裂を避け、神道を非宗教として祭政一致の国是を守ろうとする考えの神道家も出てきます。丸山作楽がその例です。

 明治15年に教導職から分離された神官は、宗教活動を禁じられます。さらに、明治19年の神社改正案では、神宮と靖国神社を除く官国幣社への資金援助を10年を以て打ち切るとされます。これは、神社を非宗教とする一方、政教分離の合理思想に基づいて神社と国家をしだいに分離していこうとする考えを示します。これは、天皇によって15年に延長され、さらに神官の運動によって、後に資金援助が少額とはいえ続けられることになります。

 明治23年の帝国憲法制定とその後の教育勅語の発布は、明治の近代国家の一つの完成を見る事になりますが、神社の問題は、引続きこの国の喉に引っかかった骨のような物でした。神官達は国家の宗祀とされた神社が社寺局として寺院と同じ扱を受けるのは間違いであり、明治の始めに戻り、神祇官を再興させるべく、広範な運動を明治二十年代に起こします。

 明治33年、神社局を作ることにより、この問題は一応の決着を見ます。しかし、熱田神宮の宮司が、県の課長にふんぞりかえられるほど神官の権威はありませんでした。政府はひたすら神社の非宗教化と神官の公務員化と神社の形骸化を促進します。

 明治39年内務省は悪名高い神社合祀令を出します。当時19万余あった神社は、42年までに4万3千の神社が合祀によってなくなります。この後も合祀が続き、最終的には昭和13年で11万社です。例えば三重県では714社となります。しかし愛知県は3521社、新潟県は5366社、こういった県は合祀が住民の反対でうまく進まなかった県です。和歌山は473社、南方熊楠が反対したわけが解ります。 なお、現在、宗教法人格を持つ神社は8万2千、内2千は単立です。

 官僚は神道を国家の礼典と解し、神社を歴史的な偉人の記念堂のようなものと解し、神官の思想的な表明を禁止し、政教分離の近代国家を作ることに熱心でした。しかし、祭政一致の明治の建国思想より演繹される国体観念は、公教育や教育勅語の渙発によって、全国民的な常識となり、これは、結果として、社会の経済的な窮乏と腐敗により、在野の狂信的な神道思想を胚胎させる事となります。多くの昭和初期のテロ事件の実行者がこうした神国思想、皇道思想の持主でありました。

 以上見てきたように、戦前の日本の国家神道と一般に呼ばれるものは、単に神社の制度や組織の問題ではなく、国家そのものに成立当初から存在していた観念が、特に公教育を通じて国民に徹底され、作り上げられたエ−トスであったといえましょう。大日本帝国は近代合理主義の制度と組織を持ちながら、神勅による皇位を絶対のものとする天皇を中心に立てたことにより、決して民主国家になることはできず、唯我独尊的な神国思想に走り、西洋流の植民地主義と日本流の同化支配によってアジアの国々をあるいは併合し、あるいは間接支配しながら、アジア諸民族のリ−ダ−となり、偶々同盟国となったドイツ、イタリアを除く西洋列強に戦いを挑む道を選択したのです。

 この時代は和魂洋才といいながら、日本に伝統的な、多様性を尊び、異質なものを柔軟に受け入れるよさを忘れ、発想も西洋的な絶対的な考えに走り、ついには、激突してしまったのではないでしょうか。

 神道の立場からみれば、本来宗教で有るべきものが、成り行きで宗教でない事になり、神社や神道の本来有している生き生きとした生命力が損なわれ、政治的に利用された、不遇な時代であったと言えましょう。しかし、一般に当時の神官のガリガリの復古主義、或るいは事なかれ主義には、見るべきものは有りません。宗教者として他に進むべき道があったように思います。

 しかし尚、現在の神社界の指導者の中には、戦前の国家管理時代への郷愁が見えるのは残念でなりません。

 以上

 1996,4,26 (韓国におけるIARF世界大会の講演原稿)

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