宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

共謀罪と道義国家

2017年6月10日   投稿者:宮司

「組織的犯罪処罰法改正案」(テロ等準備罪)法案、俗に言う共謀罪法案が、現在、参議院で審議中である。国民の大多数が反対しているこの法案は、おそらく与党議員の圧倒的な多数の力で可決されるであろう。
 この法案の不要性と危険性については、巷間、すでに様々な指摘がなされている。そこで、ここでは、なぜ、この法案が必要とされるのか、ということを、安倍政権の後ろで、将来の日本国の理想像を考えている人々の立場に沿って、考えてみる。

 彼らの望む日本国の理想の姿とは、君民共治の道義国家である。その具体的な姿については、本ブログ中の「神社本庁(日本会議)の見果てぬ夢」で述べた。ここに再掲してみる。

 核となる考え方は、一言で言えば、天皇という王道の王を抱く世界に唯一の国である日本は、家族を基礎として道徳的に完成された国民と天皇との君民共治の理想的な道義国家であり、これは人類の最高の社会形態であるということである。これを「國體」という。現在の日本は、占領憲法に毒されて、この國體が失われており、これを回復することが、「美しい日本」を再生することに他ならない、ということに尽きる。(中略)
 つまり、先に述べた、「國體」の回復は、根本に個人の否定を置き、個人から発生する基本的人権という観念を否定し、日本の軍事的自立を求め、また、個人を基本とする民主主義と市場経済を否定し、金銭の獲得を最上の目的とする利己的な資本主義社会を否定することにつながる、ということだ。この、個人と、民主政治と、資本主義から生じるグリード(貪欲)の否定は、すなわち、近代という時代の否定である。  「國體」の実現は、反近代の思想なのだ。
 反近代の主張の出発点は、「人間は、家族の一員として生まれ、家族の一員として生きる」という家族主義だ。家族は村につながり、村は実体としての国につながる。そして実体としての世界につながるべきだということである。世界が、家族を単位としてつながり、家族の道徳を基礎として世界がつながる。

 ここで明らかなように、家族に象徴されるような前近代的な共同体がその国家観の発想の出発点であり、家族を全日本に拡大したような大集団の共同体を作ろうとしているのである。
 さて、家族や友人といった小集団の共同体は、その内部に法律とか規則を定めない。したがって、道徳や倫理、あるいは伝統とか習慣といったものによって秩序が保たれることになる。これらの内実は、常に共同体の成員全員による話し合いによって定められる。
 これに対し、大集団を共同体として組織しようとすれば、全員の話し合いを実現することはできないので、代わりに規則や法律が秩序を保つために定められる。そして、目標とする社会の姿は、道徳やイデオロギーによって提示される。なぜなら、規則や法律は、消去法によって社会の秩序を保つ性質のものであり、あるべき姿を提示することにはなじまないからである。具体的な例をあげる。親孝行を法律で定めるとすれば、どのようにその姿を明文化するのか?親の言うことは何でも従え、と定めれば、親が盗めといったから、盗んだ、ということも認めることになる。よって、このような行為をしてはいけない、という消去法が法律や規則の基本となる。もちろん、納税とか徴兵といった明文化しやすい義務は、法律となる。
 国家規模の共同体のあるべき姿は、国家によって国民に与えられる道徳やイデオロギーといった形態で示される。すなわち、教育勅語のようなものや、共産主義思想のようなものだ。ここでは、国家の目標は、不変であり、永続的なものであるとされる。なぜなら、国家規模の共同体を志向する時点で、その共同体は絶対的な善となるからである。共同体は所与のものとして、国民に与えられることになる。すなわち、全体主義国家の完成である。国家の意思に従う人々は善であり、従わない人々は悪である。
 ここで問題となるのは、いかにして、共同体の目標に添わない人々を諭し、従わせていくかということである。全体主義の社会では国民が同じ方向を向くので、異論を排除する世論によってそれを行うのであるが、確信的な人々に対しては、法律と警察力で規制しなければならない。しかし、近代の法律は一般に罪刑法定主義であるがゆえに、この目的に使うことはできない。したがって、個々人の心に踏み込んで、国家目標に少しでも違反する気持ちを持ったならば、あるいは持つ危険性があったならば、これを取り締まることのできる法律が必要であり、それを具体化したものが、まさに、内心を取り締まることのできる共謀罪法案である。現在審議中の共謀罪法案について、当初、政府は、特定の人々や組織にのみ適用され、一般人には関係ないものであると説明していたが、すでに、各種のNGOや市民団体も監視の対象になるというようになった。拡大はどのようにでもできる。現実に罪を犯さなくともその可能性ありとして拘禁や逮捕が可能であり、仮に処分保留で釈放されたとしても、被疑者が受ける社会的なダメージは大きい。それは十分に、国民に対し、反政府的な考えを持つことは危険であるというメッセージとなる。
 すなわち、道義国家の実現と共謀罪の立法化はセットであり、彼らの理想とする国家像を見事に描き出している。また、このような国家は、国民に道徳や法律を強制するが、支配層の人々はそれにとらわれない。なぜなら、支配層を取り締まる立憲主義が存在しないからである。彼らは平気で嘘をつき、身内や友人のために便宜を図り、違法行為を行う。前近代の国家がそうであったように。

 これに対し、個人を基礎として、社会を構成するすべての個人の社会契約に基づいて構想される近代的な民主主義の国家は、基本的に国民である諸個人の自由を束縛しないことが大前提となる。よって社会の理想像を国民に強制するようなことはない。時の政治指導者が、自身の構想に基づき、何かを目標として掲げることはあっても、指導者は国民の意思によって選ばれるので、その目標は持続的なものではない。人々は、自由に考え、自由に発言し、法律の制限する範囲の中で自由に行動する。政治指導者も例外ではない。社会秩序の安定のために、人々は自然にコモンセンスともいうべき共通善を求めるが、決して政府が明文化しようとはしない。倫理や道徳は小集団の中で醸成されるものであって、国家が国民に与えるものではない。

 道義国家を志向する彼らは、確かに、近代社会の矛盾である、人々の心の孤独化や互いの信頼感の欠如、競争と契約の社会の冷淡さや強欲から、人々を解放しようとしている。その心構えは純粋である。反近代の情念はわからないでもない。しかし、方法論が決定的に間違っている。出来上がってくるのは、狂信的な全体主義の国家であり、人々に近代社会が失ってしまった幸福感を取り戻すようなものではない。

 真に必要な社会は、近代社会の持つ生産と消費の合理性と前近代社会の持つ共同体の幸福感を併せ持つ社会の実現であり、それは、民主主義と資本主義の社会を基礎として、社会的弱者の救済のために各種の法律を定め、社会集団の基礎としての小集団の共同体を随所に作り上げていくことによってのみ、達成されるものだ。
                  (2017/06/10)

 

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