宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

道義国家批判

2016年7月31日   投稿者:宮司

今年、7月13日、外国特派員協会での記者会見の席上、日本会議会長の田久保忠衛氏は、これからの日本は、道義国家を目指すという発言をしている。外国人記者も驚いたようだが、その理由は後述するとして、最近、各所で、道義国家という言葉を聞くようになった。安倍首相を礼賛する人々は異口同音に、「道義国家」日本の建設を目指すべきという。もちろん、神社本庁が一貫して、「道義国家」を目指していることはご承知のとおりである。

この、「道義国家」をネットで検索してみると、たくさん出てくるが、全て肯定的な賛成論ばかり。ちなみに「道義国家批判」を検索してみても、批判論はほとんど見られない。日本の政治学者や法学者は何をしているのかと言いたい。巷間、「道義国家」が良いものであるかのように世論が定着したら、責任は、学者たちにあると言いたい。これほど、否定や批判が容易であるものを、どうして知らぬ顔をして見過ごしているのか?

そこで、今回は、この「道義国家」を詳細に吟味し、これがいかに危ない考えであるかを論証しておく。

「道義」とは何か?

一般的には、道義とは、人としてふみ行うべき正しい道、道徳、道理、と解される。

明治の思想は、儒家神道と呼ばれる神儒一致思想に深く影響された。道義という言葉は、儒教に淵源を求めることができよう。孔子は「仁」を徳目の最上位に置き、孟子は「仁と義」を最上とした。2,500年前の思想である。孟子はまた、王覇の別を唱え、王道論の道筋をつけた。日本人には、この「義」と「王道」が殊の外好まれた。「道義」とは義を行う生き方、「義」とは正しいこと、「正義」という意味である。薩摩義士、赤穂義士という風に使われた。

一方、生活の場での大切な生き方として道徳がある。日本人が好む道徳の例として、教育勅語を参照してみる。そこで謳われている徳目は、「孝」、「助」、「信」、「和」、「謹」、「慈」、「忠」、「智」、「学」、「尽」、「遵」である。これを、南総里見八犬伝に記された儒教の八徳と比べてみる。それは、「仁」、「義」、「礼」、「智」、「信」、「忠」、「孝」、「悌」である。共通しているのは、「孝」、「信」、「忠」、「智」である。この他に「助」は「悌」と同じと考えて良い。

極めて注目すべきは、教育勅語には「義」が欠けていることだ。当時は、国民が国内で生きるための指針として勅語が作られたので、敢えてこれを外したと思われる。「義勇公に奉じ」という部分があるが、これは「忠義」の範疇であって、「正義を行え」という意味ではない。「義」とは、正しいことを行う、という意味であり、何が正義であるか、ということは、人によって異なる。それを吟味しようとすれば、価値妥当性の議論につながる。例えば、幕藩体制が悪であると考える人々にとっては、その打倒が「義」となる。明治体制が悪であると考える人々にとっては、その打倒が「義」となる。これではまずいので、「義」を外して「遵」(法)を入れたと考えられる。

例えば、大川周明は、1925年、「道義国家の原理」を発表した。ここでは、個人の自我と国家が対立する場合を想定し、「今日の国家が最早国民道徳の客観的実現として是認せらるべき」と説いた。(帝国日本の「道義国家」論と「公共性」—姜海守より引用)すなわち、国民意識と国家が共通の道徳によって秩序づけられるべきだと説いたのだ。これは国民意識に基づく政府の打倒を是認する思想である。

従って、政府は、「義」という徳目の扱いには、慎重であった。1937年発行の「國體の本義」の中にも「道義」という単語は見当たらない。そして、1941年発行の「臣民の道」の中に初めて、「道義国家」という単語が、大日本帝國が正義を行う国であるとする文脈の中で使われた。そこでは、「世界史の転換は旧秩序世界の崩壊を必然の帰趨たらしむるに至った。ここに我が国は道義による世界新秩序の建設の端を開いたのである」と記されている。これは、当時の法哲学者である尾高朝雄の「道義は国家の理念であり、国家は道義の実現を使命とする人間共同体である」という主張が大きな影響を与えていたと思われる。(帝国日本の「道義国家」論と「公共性」—姜海守を参照)

すなわち、「道義国家」とは、国家を内的に秩序立てるロジックではなく、国家の行動の正当性を表明するためのロジックとして使用された。

しかし、現在、一般に流布している教育勅語の現代語訳を見ると、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ」という冒頭の部分が、本来の意味とは異なり、「私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。」となっている。ここでは、「道義国家」という概念が、戦前の「道義国家」と異なる、国家の内的な枠組みを示すものとして使用されている。

ネットの中での「道義国家」も、田久保氏の「道義国家」も同じである。まさか、日本が、世界を道義によって日本流に新しく秩序立てる使命を持つ、などと主張されたつもりはないであろう。先に述べた教育勅語の現代語訳と称する誤訳は、国民道徳協会の訳文とある。これは、1970年代に、佐々木盛雄という国会議員経験者が作成したもののようである。おそらく、教育勅語の、皇国史観と関わる部分を意図的に無くし、戦後社会に適応させようとしたものであろう。

したがって、ここでは、「道義国家」の本来の意味ではなく、現在、道義国家を礼賛する人々の間で使用されている意味合いにおいて批判的考察をしてみよう。

この場合、「道義」とは、単に正義を行うという意味にとどまらず、教育勅語に記されたような道徳の徳目を全て実践するという意味に捉えることが適切と思われる。「道義国家」とは、そのような道徳的な国民で満たされた国家であり、対外的にもそのような徳目に沿って振る舞う国家である、とするのが適切であろう。

道徳で人の行動を律するというのは、古代から存在する考え方だ。孔子や孟子が説いた徳治主義というのは、国民を徳によって治める、つまり国民を一定の道徳に従わせることによって秩序を得ようとする社会システムだ。

では、どのようにして道徳を守らせるか?法律で罰則を定めるか?しかし、道徳とは漠然としたもので、刑罰を定めて強制する対象としては極めて不適切なものだ。例えば、「親孝行」という道徳を守らなかった人に刑罰を加えるとして、どのように具体的に罪の定義をするのか?子が親にたてついた場合、禁固刑を定めるのか?程度に応じて量刑を定めるのか?全ての徳目に対してそのように定めることは現実的に不可能だ。せいぜい出来ることは尊属殺人を重罪とするようなことだ。

では、実際は、不道徳な行いに対してどのように規制を加えるのか?一例をあげよう。前東京都知事の舛添氏は、政治資金の私的流用の不道徳性を追求されて、知事を辞職した。しかし、彼は、法律に違反したわけではない。その不道徳性をあらゆる世論によって断罪されて、辞任に追い込まれたのだ。民主的に言えば、これはあってはならないことだ。問題とすべきは政治資金規正法の不備であり、その改正が求められるべきだ。そして次の知事選挙で落選して失職するのが適切であった。しかし、世論は彼の不道徳性を非難し、彼を辞任に追い込んだ。このように不道徳を規制するものは、人々の非難であり、世論の非難である。

従って道徳で規律を守ろうとする社会は、必然的に、同じような価値観を持つ国民を作り上げ、異論の人物を世論によって排除しようとする。そこには、思想、表現の自由など存在しない。個性は世間に埋没し、右へ倣えの国民性となる。例えば、国家経済が破綻に瀕したとしても、国民は皆で我慢し、この困難を乗り越えるべきだと説かれる。国家に対する批判は、不道徳なものとして排除される。もちろん戦争には、国家総動員でこれに当たらなければならないとされる。そして、道徳は、本来、国政を司る人々も共通に守らなければならないものであるが、彼らは道徳にとらわれない。なぜなら、世論を誘導するメディアは権力に媚びるので、真の政治支配層を非難することはできないからだ。さらに、道徳は法的に定められるものではないので、権力者たちを道徳に従わせる術はない。このような国民に対する一方的な倫理の強制は、まさしくかつての共産国家と同じだ。

指導層は道徳を守らないということは、現在、「道義国家」を実現しようとしている人々の言動を観察すれば十分に理解できる。例えば、櫻井よしこ氏や百地章氏は、緊急事態法の成立を促すために、人々に、東日本大震災の折はガソリンが緊急車両に行き渡らなかったために救える人も救えなかった、という嘘をつき続けている。憲法改正をPRする映画を作っている百田尚樹氏は、映画の中で、白州次郎の「今に見ていろ」という気持ちを抑えきれずに云々というくだりを日本国憲法は米国に押しつけられた憲法で、白州は悔しい気持ちでそれを受け止めたとする証拠として挙げている。しかし、当の白洲次郎は、その著書「プリンシプルのない日本」の中で以下のように記している。「戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」彼は、日本国憲法を喜んだのである。何故か?あの時代状況にあって、戦争放棄条項は、アメリカからの軍事力の拠出の要請を断り、経済発展に資本を集中するために、実に便利な条項であったからだ。

このように、「道義国家」の実現を主導する人々は、「信」を持っていない。彼らは、「道義国家」を実現することによって、唯々諾々と為政者の命令に従う国民を得ることを真の目的としている。

本来、「道徳」とは、古代から近代化が始まるまでの前近代社会において、人々の秩序を維持する装置の一つとして人類が持っていたものだ。社会が大規模になるにつれ、法律が道徳や慣習に代わって、人々の秩序を守る最善の手段となった。近代化以降、人間は自由であるという思想が発達し、慣習や道徳で一つの方向へ人々をまとめていく考えは影を潜め、代わって、自由な人々を規制する装置としての近代法が整備された。人々は平等であり、法は平等に適用されなければならないので、為政者をも法で縛る立憲主義が成立したのだ。

これに対し、道徳は、為政者が国民を柔らかく拘束する装置として働く。しかし、時に特定の項目が法律によって厳しく国民に適用された時には、世論と相俟って猛威を振るう。戦前の治安維持法がその良い例である。一方、道徳は為政者には、決して適用されない。なぜなら適用する法的な強制力がないからだ。もちろん為政者を縛る法律を、為政者自身が作るわけがない。そして、為政者はいつも、自分たちが道徳的であるという嘘を主張する。

国民は、為政者が道徳的に完成された人格であると思い込まされ、国家の指導に盲目的に追随するように馴らされていく。

かえりみれば、戦中に、道徳、道徳と騒いだ人達の中に、どれだけ道徳的にまともな人々がいたか甚だ疑問だ。彼らの作り出すのは、「道徳」によって国民を一定の価値観の中に押し込め、自分たちは不道徳な行いを自由に行い、好き勝手に国家を弄ぶ社会システムである。最も、自分たちが不道徳であるという自覚があったかどうかは定かではない。現代の櫻井氏も百地氏も百田氏も、自分が不道徳であるとは自覚していまい。

儒者は、まつりごとの要諦として、「民はよらしむべし、知らしむべからず」と説いた。国民は従わせることが大事で、余分な情報を与えてはならない、ということである。今、日本で起きようとしているのは、そのような2500年前に主張された体制への変化だ。常識では考えにくいことだが、本当である。

日本は、成熟した民主主義と市場経済を持ち、基本的人権を尊重する国であると信じられていたが、どうも、昨今の日本国民の意思はそうではないようである。外国特派員が心配するわけだ。

最後に「道義国家」が外国特派員に驚かれた理由を記す。「道義国家」をそのまま英語に訳すと、「MORAL COUNTRY」となる。英語のこの概念は、民主主義と基本的人権の尊重が最も発達している国、といった意味だ。日本において、現在、国民主権や基本的人権の尊重や民主主義が危機に瀕していると理解して、田久保氏の質問に当たった外国特派員が驚いたのは当然であった。

今一度いうが、「MORAL」とは、人類が得た共通価値、基本的人権の尊重、民主主義の成熟、社会的弱者に対するケア、こういったものがMORALだ。

教育勅語に記された道徳は、前近代の道徳であり、それ自体は、決して否定されるものではない。しかし、肯定されるためには、第一に、それが権力者、為政者を含む全国民に遵守されるものでなければならないが、それを保証する合理的な方策はない。第二に、道徳というものは、「義」の例でも示したように、多義性、相対性があることが多い。常にそれを意識し、総合的な視野に立って道徳性の有無を判断すべきである。そして最後に最も重要なことは、旧来の道徳は、現代の新しいMORALの下位に置かれるものであることが必要である。すなわち、国民主権と基本的人権の尊重を柱とする民主主義に基づく法体系によって社会システムが成立していることが、必須の要件となる。
(2016/07/31 2017/03/25一部加筆)

昨今、稲田防衛大臣が、国会答弁で、教育勅語を礼賛し、道義国家の必要性を訴えたために、本稿が、道義国家批判の参考例として、多くの方々の注目を集めることとなった。そこで、捕逸として、教育勅語の問題点と道徳教育の問題点を指摘しておく。

教育勅語の批判は、保守の人々が現代語訳として提示するものが、意図的に、前段の皇国史観と後段の天皇制国家に対する忠誠を説く部分を捨て去り、それぞれ道義国家の伝統と国に対する忠誠にすり替えた、国民道徳協会訳文と称するものであるので、前段と後段の本来の意味が、現代の日本国憲法や教育基本法に反しているという点で、批判されることが多い。この批判は、その通りであるが、一方、中段に記された道徳の徳目については、殆ど批判なく、教育の現場で使用しても差し支えないという官僚や文部科学大臣まで出る始末であるので、その問題点を指摘しておきたい。
本稿で述べてきたように、道徳というものは、国家が教育の現場で、単一の価値観として、国民に押し付けて良いものではない。それを行えば、第一に、画一的な国民を作り、思想や信条の自由という、近代民主主義の根幹が脅かされる。第二に、道徳を支配層に強制するシステムを作ることができないので、支配層は、「信」を持たず、国民を好きなように弄ぶ前近代的な国家が実現する。スターリンや毛沢東の支配した共産主義を謳った国家が、どれほど道徳を国民に強制したか、そして、支配層がどれだけ好き勝手なことをしたか、考えてみれば良い。あるいは、教育勅語の道徳を全国民に説いた大日本帝國と現代の日本と、どちらに犯罪件数が多いかを比較してみれば良い。つまり、道徳というものは、国家が教育の中に制度化することに馴染まない性質のものであるのだ。
その理由を述べる。道徳は、前近代的な社会集団を秩序立てるものとして発達した。したがって、本ブログ中の「前近代と近代—社会意識の変容」で述べたところの、基礎共同体、家族とかムラのレベルの社会の中で、発達したのである。そこでは、法律というものが存在せず、常に実用的な生き方や人間関係を作る中で、道徳の内容が作られていった。道徳というものは、相対的で、多義的なものである。このことは、本稿の前段で述べた通りだ。したがって、道徳の内容は、現実の状況に合わせて解釈される必要がある。それができるためには、その集団の成員が常に顔を合わせて話し合う環境が保障されていなければならない。例えば、友人を大切にする、という道徳がある。ある友人がその社会集団に危害を加えようとするときは、友人を止めなければならない。これは友情を大切にするという道徳からは外れるが、集団全体の安全と安定を図るという道徳には適合する。このように、道徳は、多面的であり、一義的に与えられるものではない。現代でいえば、基礎共同体とか意思共同体といった小集団の中での生活規範としてのみ用いられるべきものである。そういった小集団の中では、法律や規則といった規制装置はない。それゆえ、道徳が必要であり、その内容と適用は、常に、成員全体の話し合いの中で決められるべきものだ。
これを履き違えて、道徳を、国家が国民に与える生活規範であるとすれば、それは、前述の通り、全体主義の社会を現実化する手立て以外の役目を持たない。
国家とか地域といった、集列的な関係にある大集団を秩序立てるのは、法律の役目である。現代の、個人を基礎とした民主主義と資本主義の社会にあっては、諸個人の自由権の制限として、諸個人の総意によって制定された法律が、唯一の秩序建ての道具であり、それは政治家や行政層にも平等に適用される。立憲主義の要諦がここに存在する。
近代民主主義成立以前の法律は、支配層が制定し、国民を恣意的に支配するために使用された。それは、社会を構成する諸個人の総意によって制定し、行政層が支配層とならないように規制する現代の法律とは真逆である。保守派が時折、大日本帝國は憲法があったので、立憲主義であると主張するのは、民主主義のイロハに無知であるからに他ならない。
では、安定した社会を作るために、教育の中で、実践されなければならないのは何か? それは、個人の自立である。現代社会が、個人を基礎として成立していることを認めるならば、正しい社会意識を持った個人を育てることこそが、教育の目標とされるべきだ。正しい社会意識とは何か?それは、民主主義の成立の根本を知り、個人を基礎として、人類社会全体の平和と繁栄と共存を実現していこうとする主体的な意識である。ケン・ウィルバーが、人類社会の理想的な未来は、社会構造の改革ではなく、諸個人の意識をより高次の段階に引き上げることによって実現するとしたのは、まさしく、個人の自立が、人類の未来にとって最も必要であるということを示している。そして、それは、現代のMORALである、自由と平等、基本的人権を大切にする社会を導くものである。
(2017/03/19)

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