宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

世界情勢の示すもの

2014年2月8日   投稿者:宮司

以下は、平成3年、愛知県神社庁の機関誌「宮柱」の原稿として書いたものです。

 「世界情勢の示すもの」

最近の共産主義世界の崩壊は、すさまじい速度で世界の構造を変えつつある。

 第二次世界大戦後の世界は、アメリカ合衆国とソビエト連邦という二超大国が、それぞれの国家群を従え、イデオロギー対立に花火を散らし、いわゆる冷戦の時代を作った。国連は、ほぼその機能を失い、単なる議論のテーブルになり下がっていた。

 今、冷戦の時代は収束し、今後の世界がどのような方向へ進むかが、大きな関心の的となっている。

 着眼点は、二つある。一つは、イラクのクウェート侵攻、ソ連のクーデターの失敗の最大の原因が、世界を瞬時に駆け巡る情報の発達とそれによって作りだされる国際世論、そして民衆の意志によることからわかるように、世界は、最早、一国、一地域で独立して存在しうる状況に無い。生活の豊かさと自由を求める人類は、経済の発展と政治的自由の獲得を目指し、人、物、金、情報の交通と、生産の分業を世界的に広げ、また、人権、自由、民主主義といった価値理念を共有しつつある。そして、世界的な核戦争と環境破壊の脅威は、人類が連帯して課題の解決に向かわざるを得ないことを示唆している。この点に立てば、人類は、国連により結び付き、国家の主権は次第に限られたものとなってくるであろう。

 もう一つは、ユーゴの内戦、グルジアの暴動などにみられるように冷戦の崩壊により世界各地の民俗、文化、宗教の対立が鮮明となり、それは、無数の国家の内戦、国家間の対立を導き、むしろ、国家は、その主権の主張を最大限に発揮し、世界は、動乱の様相を呈するであろうという考えである。

 これら二つの考えかたは、全く異なっているように見える。しかし、実は、後者の考えかたは、前者に包まれるものである。人類は、個々に個性を主張しながらも、共通の目的と課題の解決の為に共存する道を選ぶと考えられる。

 人間は、過去、幾度となく、一つの考えかたで世界を統一し、人類に平和をもたらそうと努力し、失敗を続けてきた。キリスト教然り、イスラム教然り、共産主義然りである。現在に至って漸く、人類は、個々に異なった価値観と文化、宗教、民族性をもつのが本来であることが理解されたのである。異なった存在が共存するためにこそ、自由と民主主義が必要とされる。民主政治と独裁政治の社会学的研究を行ったハンス・ケルゼンは、既に二十世紀初頭、民主主義は相対主義的世界観を基礎とすることを喝破している。特定の考え方は絶対的なものでなく、常に、過渡的なそして一部分の真理にすぎない。人類は、経験的に共存の条件を作り上げていくのであり、それは、天与のものではない。政治指導者は、民主的な手続きにより、最大多数にとって望ましい人々が選出されるが、しかし、彼等は絶対ではない。常に堕落し、失敗する危険を持ち合わせており、それ故にこそ、チェックアンドバランスの機構が必要とされる。即ち、異なった価値観をもつ人々の話し合いと妥協により望ましい共存が実現される。

 このような考えかたは、ひどく現実的で、理想主義的でないように感じられる。例えば、私達神社人は、日本を道義国家にしなければならないという。天皇陛下は、極めて道義的に完成された人格者であり、国民の師表であるという。国民は、道義的に洗練された美しい国家を作り、世界を指導しなければならないという。

 宗教が人間の人格的完成を目指すのは自然である。しかし、だからといって道義的に完成された人格者が政治を行う、あるいは私達の組織を指導することを前提として、効率的な組織作りを優先して、結果的に官僚的な、あるいは酷いばあいには独裁的な意思決定システムを作り上げることは、間違っている。このことは、日本的民族主義の目指す国家が、特定のイデオロギーを絶対とする共産主義のような全体主義の国家に不断に転化していく危険性をしめしている。実際、過去、教育勅語がソ連で行われている教育とよく似ているとして、その正当性が主張されたことはその良い例である。

 私達は、激変する世界情勢が今、私達自身に教えてくれるものにもう少し積極的に注目し、あり得べき、国と社会、そして世界の姿を考える手立てとすべきではないかと思う。

 (1991.10.25)

世界