宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

事物の客観性と認識の客観性の問題について

2023年11月23日   投稿者:宮司

 私は、本ブログ中の「歴史相対主義を憂う」の中で、「ドイツでは、カントの批判哲学を受けて、物自体の認識を理論化するために弁証法を取り入れた観念論が哲学の主流であり、結果として価値哲学に見られるような歴史相対主義に入ってしまう。これに対し、物自体を物として、ものの定在から認識のあり方を追求したマルクスが共産主義理論を作り上げたのは興味深い。価値哲学の歴史相対主義と唯物史観とは、弁証法から生まれた兄弟と言える」と論じた。

 そして、「マルクス主義の誤謬」では、「社会構造は事物として実在しているとみなされるために、社会構造を変えれば個々人の社会意識は必ず同じように変わるはずであると考えることとなり、それは硬直的な社会変動論を生み出す」と論じた。

 ここで明らかなように、ヘーゲルの弁証法哲学では、意識主体の事物認識の豊富化を、意識主体と事物との認識行為を弁証法的に捉えることによって説明しようとするが、それは、意識主体から独立した事物の客観的存在を証明するものではない。そこでマルクスは、事物の存在を確定して、そこから意識の変化を説明しようとした。事物の存在が確定的であるならば、時間とともに意識が成長すれば、必ず同一の意識(事物認識)が生まれることとなる。ここに、マルクス理論の硬直性が生まれる。これに対し、意識の実在を最初に認めれば、それは意識主体が複数であるがゆえに、価値相対論に陥るか、全ての実在に疑問を持つ虚無主義になるかどちらかである。

 これは認識論のアポリアであった。しかし、現在では、現象学が説いた間主観性を介して、解決されている。それは、幼児の認識の発達過程において、認識の豊富化は、他我主観の同一性の認識を包合しつつ成長するという現実の発見であった。ここにデカルト・カント以来の認識論のアポリアが解決されたのである。

 つまり、根本的には、事物の実在は無前提には証明できないし、意識主体の認識内容は同一ではない。あるのは間主観性であって、発達の中で、それぞれの意識主体の認識内容の同一性を把握し、事物存在を確定的なものとみなすようになるのである。

 事物の客観的存在も、意識主体の認識の客観性(同一性)も簡単に証明できるものではない。つまりは、時間の流れの中の人間意識の相互作用として捉えなければならない。その意味では、社会的相互作用が、人間の意識の成長に深く関わっていると言える。(2023/11/23)

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