宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

教育勅語と道徳教育を批判する

2023年8月19日   投稿者:宮司

私は2017年に、本ブログに「道義国家批判」という一文を掲載した。

 当時は、安倍政権の意図もあって、戦前回帰的な道義国家や教育勅語の見直しを求める世論が多くなっていたので、それを鎮め、冷静にそういった考えの問題点を示そうとして書いたものだ。幸い、現在、道義国家とか道義国家批判で検索すると拙文が第一番か第二番に検索されてくる。どうやらかなりの数の方々にこれを読んでいただいているようであるので、少しホッとしている。

 しかし、教育勅語の批判としては、これは、後日にこの文の後段として簡単に論点を整理して記述したものなので、あまり気付かれてはいないようである。

 私の、教育勅語に対する批判というものは、それが戦争に国民を動員する目的で使用されたという点で批判するものではない。主に歴史家の人々によってこの観点からの批判がなされる場合が多い。私はそれを否定しないが、私自身の教育勅語に対する批判は、道徳教育そのものが、国家の教育制度の中に取り入れることに馴染まないものであることに論点を置いている。

 それは、民主主義の国家はいかなる国民意識を醸成することが必要であるかということに焦点を絞っているからである。

 簡単に理解できるように、道徳の徳目として推奨される、親孝行とか、兄弟愛とか友情といったものは、かつての共産主義の国家でも教育目標の一番に挙げられたものであった。つまり、権威主義の国家の国民教育の最大のポイントがここにある。

 皮肉に言えば、道徳を国民全体の美徳として教え込もうとする人々は、プーチンや習近平の手先と同根である。自民党など保守系の政治家や学者の人々は、これがわかっていない。日本の社会が民主主義の社会としてどうしても中途半端に見えるのはおそらくここに原因がある。

 そこで、私の「教育勅語批判」の部分を以下に再掲して、道徳というものの性質がいかなるものであるかということもう一度示しておくことにした。わかりやすくするために、一部手を加えている。原文は、本ブログ中の「道義国家批判」を参照されたい。

 道徳で人の行動を律するというのは、古代から存在する考え方だ。孔子や孟子が説いた徳治主義というのは、国民を徳によって治める、つまり国民を一定の道徳に従わせることによって秩序を得ようとする社会システムだ。

 では、どのようにして道徳を守らせるか?法律で罰則を定めるか?しかし、道徳とは漠然としたもので、刑罰を定めて強制する対象としては極めて不適切なものだ。例えば、「親孝行」という道徳を守らなかった人に刑罰を加えるとして、どのように具体的に罪の定義をするのか?子が親にたてついた場合、禁固刑を定めるのか?程度に応じて量刑を定めるのか?全ての徳目に対してそのように定めることは現実的に不可能だ。せいぜい出来ることは尊属殺人を重罪とするようなことだ。


 では、実際は、不道徳な行いに対してどのように規制を加えるのか?一例をあげよう。元東京都知事の舛添氏は、政治資金の私的流用の不道徳性を追求されて、知事を辞職した。しかし、彼は、法律に違反したわけではない。その不道徳性をあらゆる世論によって断罪されて、辞任に追い込まれたのだ。民主的に言えば、これはあってはならないことだ。問題とすべきは政治資金規正法の不備であり、その改正が求められるべきだ。そして次の知事選挙で落選して失職するのが適切であった。しかし、世論は彼の不道徳性を非難し、彼を辞任に追い込んだ。このように不道徳を規制するものは、人々の非難であり、世論の非難である。


 従って道徳で規律を守ろうとする社会は、必然的に、同じような価値観を持つ国民を作り上げ、異論の人物を世論によって排除しようとする。そこには、思想、表現の自由など存在しない。個性は世間に埋没し、右へ倣えの国民性となる。例えば、国家経済が破綻に瀕したとしても、国民は皆で我慢し、この困難を乗り越えるべきだと説かれる。国家に対する批判は、不道徳なものとして排除される。もちろん戦争には、国家総動員でこれに当たらなければならないとされる。そして、道徳は、本来、国政を司る人々も共通に守らなければならないものであるが、彼らは道徳にとらわれない。なぜなら、世論を誘導するメディアは権力に媚びるので、真の政治支配層を非難することはできないからだ。さらに、道徳は法的に定められるものではないので、権力者たちを道徳に従わせる術はない。このような国民に対する一方的な倫理の強制は、まさしくかつての共産国家と同じだ。

 
 本来、「道徳」とは、古代から近代化が始まるまでの前近代社会において、人々の秩序を維持する装置の一つとして人類が持っていたものだ。社会が大規模になるにつれ、法律が道徳や慣習に代わって、人々の秩序を守る最善の手段となった。さらに近代化以降、人間は自由であるという思想が発達し、慣習や道徳で一つの方向へ人々をまとめていく考えは影を潜め、代わって、自由な人々を彼ら自身の合意によって規制する装置としての近代法が整備された。人々は平等であり、法は平等に適用されなければならないので、為政者をも法で縛る立憲主義が成立したのだ。


 これに対し、道徳は、為政者が国民を柔らかく拘束する装置として働く。しかし、時に特定の項目が法律によって厳しく国民に適用された時には、世論と相俟って猛威を振るう。戦前の治安維持法がその良い例である。一方、道徳は為政者を縛らない。そして、為政者はいつも、自分たちが道徳的であるという嘘を主張する。


 国民は、為政者が道徳的に完成された人格であると思い込まされ、国家の指導に盲目的に追随するように馴らされていく。儒者は、まつりごとの要諦として、「民はよらしむべし、知らしむべからず」と説いた。国民は従わせることが大事で、余分な情報を与えてはならない、ということである。


 教育勅語に記された道徳は、前近代の道徳であり、それ自体は、決して否定されるものではない。しかし、肯定されるためには、第一に、それが権力者、為政者を含む全国民に遵守されるものでなければならないが、それを保証する合理的な方策はない。第二に、道徳というものは、多義性、相対性があることが多い。常にそれを意識し、総合的な視野に立って道徳性の有無を判断すべきである。そして最後に最も重要なことは、道徳は、現代の国民主権と基本的人権の尊重を柱とする民主主義に基づく法体系の下位に置かれるものであることが必要である。


 教育勅語の批判は、保守の人々が現代語訳として提示するものが、意図的に、前段の皇国史観と後段の天皇制国家に対する忠誠を説く部分を捨て去り、それぞれ道義国家の伝統と国に対する忠誠にすり替えた国民道徳協会訳文と称するものであるので、前段と後段の本来の意味が、現代の日本国憲法や教育基本法に反しているという点で、批判されることが多い。歴史家の人々を中心とするこういった批判は、その通りであるが、一方、中段に記された道徳の徳目については、殆ど批判をしないので、教育勅語を教育の現場で使用しても差し支えないという官僚や文部科学大臣まで出る始末であるので、その問題点を指摘しておきたい。


 先に述べたように、道徳というものは、国家が教育の現場で、単一の価値観として、国民に押し付けて良いものではない。それを行えば、第一に、画一的な国民を作り、思想や信条の自由という、近代民主主義の根幹が脅かされる。第二に、道徳を支配層に強制するシステムはないので、支配層は、国民を好きなように弄ぶ前近代的な国家が実現する。スターリンや毛沢東の支配した共産主義を謳った国家が、どれほど道徳を国民に強制したか、そして、支配層がどれだけ好き勝手なことをしたか、考えてみれば良い。あるいは、教育勅語の道徳を全国民に説いた大日本帝國と現代の日本と、どちらに犯罪件数が多いかを比較してみれば良い。つまり、道徳というものは、国家が教育の中に制度化することに馴染まない性質のものであるのだ。


 その理由を述べる。道徳は、前近代的な社会集団を秩序立てるものとして発達した。したがって、本ブログ中の「前近代と近代—社会意識の変容」で述べたところの、基礎共同体、家族とかムラのレベルの社会の中で、発達したのである。そこでは、法律というものが存在せず、常に実用的な生き方や人間関係を作る中で、道徳の内容が作られていった。


 道徳というものは、相対的で、多義的なものである。このことは、はじめに述べた通りだ。したがって、道徳の内容は、現実の状況に合わせて解釈される必要がある。それができるためには、その集団の成員が常に顔を合わせて話し合う環境が保障されていなければならない。


 例えば、友人を大切にする、という道徳がある。しかし、ある友人が彼らが所属する社会集団に危害を加えようとするときは、その友人を止めなければならない。これは友情を大切にするという道徳からは外れるが、集団全体の安全と安定を図るという道徳には適合する。


 このように、道徳は、多面的であり、一義的ではない。現代でいえば、基礎共同体とか意思共同体といった小集団の中での生活規範としてのみ用いられるべきものである。そういった小集団の中では、法律や規則といった規制装置はない。それゆえ、道徳が必要であり、その内容と適用は、常に、成員全体の話し合いの中で決められるべきものだ。


 これを履き違えて、道徳を、国家が国民に与える生活規範であるとすれば、それは、前述の通り、全体主義の社会を現実化する手立て以外の役目を持たない。


 国家とか地域といった、集列的な関係にある大集団を秩序立てるのは、法律の役目である。現代の、個人を基礎とした民主主義と資本主義の社会にあっては、諸個人の自由権の制限として、諸個人の総意によって制定された法律が、唯一の秩序建ての道具であり、それは政治家や行政層にも平等に適用される。立憲主義の要諦がここに存在する。


 近代民主主義成立以前の法律は、支配層が制定し、国民を恣意的に支配するために使用された。それは、社会を構成する諸個人の総意によって制定し、行政層が支配層とならないように規制する現代の法律とは真逆である。


 では、安定した社会を作るために、教育の中で、実践されなければならないのは何か? それは、個人の自立である。現代社会が、個人を基礎として成立していることを認めるならば、正しい社会意識を持った個人を育てることこそが、教育の目標とされるべきだ。正しい社会意識とは何か?それは、民主主義の成立の根本を知り、個人を基礎として、人類社会全体の平和と繁栄と共存を実現していこうとする主体的な意識である。


 ケン・ウィルバーが、人類社会の理想的な未来は、社会構造の改革ではなく、諸個人の意識をより高次の段階に引き上げることによって実現するとしたのは、まさしく、個人の自立が、人類の未来にとって最も必要であるということを示している。そして、それは、現代のMORALである、自由と平等、基本的人権を大切にする社会を導くものである。  (2023/08/19)

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