宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

神政連の思想の問題点

2016年6月12日   投稿者:宮司

 雑誌「週刊金曜日」に私の談話が掲載されたため、ネットの世界では、最近随分このブログへのアクセスが増えてきていると思う。その中には、私の意見に反論したい気分の人々、なかんずく同じ業界の神職の人々も多いと思う。

 そこで、今回は、神社界の一番の思想提供者(イデオローグ)と目される、神道政治連盟主席政策委員である田尾憲男氏(神職ではない)の考えをつぶさに紹介し、その問題点を提示し、神社界がいかに盲目的に間違った方向へ走ろうとしているかを検証してみた。願わくは一人でも多くの神職がこのことに気づき、日本を崩壊の道から救ってほしい。ちなみに田尾氏とは、若い頃、愛知県でお話を承った後で、激論した記憶がある。田尾氏は、まず家族道徳ありきの伝統的な家族観を主張し、私は個人の自立を前提とした家族観を主張した。結果は、田尾氏の「めだかでも家族があります」という激白で終了した記憶がある。

神政連の思想の問題点

 神道政治連盟の主席政策委員である田尾憲男氏は、國體政治研究会第69回例会において、次のような講演を行った。これは、ネットで検索し、知り得た内容である(http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/2016/03/post-34e2.html)。
 ただし、明らかな文法上の誤りは、私の責任で訂正した。

「独立回復の時点で改正すべきであった。『現行憲法』が体中にまわってしまった。なかなか改正は困難な状況。改正は國體防衛の戦い。改正を止めたら日本はアメリカの第五十一番目の州になってしまう。

國體は英語でコンスティチューションという。構成・組織・性質・体質を意味する。憲法は國體を一番大事なものとして定めた法だから『國體法』と言うのが正しい。それぞれの国にそれぞれの國體がある。建国の精神に基づいた國體がある。中國は革命の繰り返しの国。日本には英国・米国・ロシア・中国とは全く違った 長い歴史伝統に基づく誇るべき國體がある。

國體は色々な方面から見るのが大事。三つの側面から見るべし。政治的法的國體、精神的文化的國體、地理的自然的國體。

第一に政治的法的國體がある。政治的・法的に見た國體は、建国以来、萬世一系の天皇による統治が行われてきたこと。これが一番大事。統治者は統治権の総攬者。

第二は精神的文化的國體。天皇は神道の最高の祭祀主であられること。全国の神社に祭祀をすることを命じられる。皇室の祭祀と一体となって神社の祭祀が行われる。また、天皇は和歌の道の主宰者であられた。『萬葉集』二十巻に、天皇の御製、貴族の歌、庶民の歌が収められている。それが古典として残っている。和歌の前の平等。御歌所は宮中の役所。『新古今和歌集』の『仮名序』に『歴代の帝(みかど)が和歌を以て世を治め、民の心を和らぐる道とせり』と書かれている。天皇の御意志は御製を通じて国民に示される。

第三の地理的自然的國體は、日本は大陸から離れた島国なので侵略されることは稀であった。文化も破壊されることなく今日まで来ている。正倉院の御物にそれは象徴される。大陸国家ならとっくに盗まれている。日本は天災の国、自然災害が多い国。大津波・地震・洪水が次から次に起こった。しかしその都度、天皇は民の被災は自らの不徳の致す所、朕の罪なり、という御自覚のもとに被災者救済の強い御意志を示され、全国の神社に祭祀と救済の祷りを高めるように勅を発して来られた。

こういう國體が敗戦後に変革され、天皇が政治的権能を喪失し、國體条件が崩れてしまった。第一は、『大日本帝国憲法』に規定された『元首』の地位を失い、 『象徴』という地位に変更された。第二に、『皇室典範』が憲法の下位法に変更された。『現行憲法』の『政教分離規定』を受けて祭祀条項が消えてしまった。 第三に、憲法上、天皇が単なる『象徴』とされたことにより、天皇の果たす機能と役割が形式的・儀礼的な『国事行為』のみに限定された。

しかし幸いにも、昭和天皇、今上天皇の懸命なお働きによって、『現憲法』の下でも、天皇の精神的権威は保たれてきている。しかし次の世代、次の次の世代で果たしてどうなるか甚だ憂慮される。その意味でも、憲法上、天皇の『日本国の元首』の地位恢復の憲法改正が大事である。

私は、天皇の『大御心』と『御心』を使い分けて考えるのが良いと思っている。大御心とは神武天皇以来、歴代天皇に一貫して継承されてきた高貴な天皇精神である。御心とは、ある一代の天皇の精神であって、歴代の天皇にとってはこの大御心と一体になる御精進が大事なのである。その一体化が最初に霊的に行われるの が大嘗祭に他ならない。

天皇の御心が時に大御心と違う場合がある。その場合には、時によっては、側近の者や国民の側からの諫言もあり得る。一方、日本天皇にはその道を誤らないために常に国民の声をお求めになるという伝統がある。昭和天皇は『日日のこのわがゆく道を正さむとかくれたる人の声をもとむる』との御製を詠まれた。孝徳天皇 は『諫諍を求むる詔』を、元正天皇は『直言を求むる詔』を下されている。民の意思を大事にして君民一致による君民共治の治政を目指す高貴な精神が國體の中に流れている。これは民主制と君主制の双方を満足させ、双方の欠点を補い合う最善の政治形態として誇っていい。万世一系の皇室が百二十五代にわたって続いてきた所以もここにある。

『教育勅語』に見る『道』こそが、日本国民の道であり、国民道徳の基本にして、教育の淵源であると思う。『帝国憲法』を支えるバックボーンとして『教育勅語』 が、明治天皇により発布された。『教育勅語』に『斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所』とある通り、天皇にとっての道は皇祖皇宗の遺訓を守ることである。国民にとっての道は忠孝の道を実践し、勅語にある十二の徳目に努めることである。天皇と国民か『其德ヲ一ニセン』と願うもこれこそ君民一致の日本国の最高の美徳であり、強みだと言える。

憲法改正に向けて国民のとるべき道は、明治の先人が諸外国の憲法を参考にしながら君民一致で作り上げた帝国憲法とその立憲精神を憲法改正の最も大切な指針と すべきである。GHQが帝国憲法を変革して新規に付け加えたわが國體にふさわしくない条文や文言を削除して書き直し、既に定着した良いものは残し、新たに必要とする事項についてはさらに追加も考えていくべきである。

これからの改憲は帝国憲法の再改正に外にならない。敗戦占領下の混乱時に米國人によって一週間余で作成された現憲法を改正の出発点にしてしまっては日本の國體を顕現することは到底できない。そのことをよくよく認識すべきである」。

 この講演内容から、神政連の思想の問題点を指摘する。以下、文脈に沿って見ていこう。

 前置きは、後で検討する。「憲法」は、国の基本的な枠組みを定めるものであるから、これで良い。

 政治的国体は万世一系による天皇による統治が行われてきた、とする記述は、学問的には問題が多い。しかし彼の信仰であり、神社界の信仰でもあるから、それはそれで良い。だが、これを一般化して国民に押し付けることは慎まれるべきだ。また、統治者を、態々統治権の綜攬者と表記することは、戦前の大日本帝國で、天皇総攬の裏で、一握りの人間による専断政治がおこなわれた歴史を省みるならば、同じような専断的政治体制を志向していることは明らかだ。

 精神的文化的国体の中心に天皇を据えるというのは、現行憲法の天皇象徴制という意味合いにおいては良い。しかし、天皇を神道祭祀の王とするのは、それを信仰する人々だけに許される思想であって、これを思想信条の自由を保障される近代国家の国体とするには無理がある。これを通せば、明らかに思想統制、信条不自由な国家となり、時代錯誤の原理主義に陥る。そういう批判を防ぐために、「(国民は)和歌の前の平等」などと言って、天皇と国民の関係は専制君主と支配される国民といった関係ではなく、麗しい情愛に満ちた王道政治の王と国民の関係であるとする王道論の詭弁によってごまかそうとしている(王道論の批判については、このブログ中の「天皇と神社・神道」を参照)。

 地理的自然的国体については、問題はない。

 敗戦後の変革は、日本国を、平和主義、民主主義、基本的人権の尊重という三つの柱によって構成しようとしたものだ。日本国憲法の三原則がここにある。
当然、専断政治の目は絶たれ、天皇は本来の文化的な権威に基づく国家の象徴となり、政教分離原則により、天皇の祭祀は天皇家の私的な祭祀とされた。近代法では当たり前のことだ。これを問題とするということは、三原則に基づく近代的、民主的な国家を否定し、近代の異端児ともいうべき全体主義の大日本帝國の復活を目指すものであると断定されても仕方がない。

 特に問題はなさそうなこの部分と次の章とは関連付けられている。すなわち、「次の世代、次の次の世代で果たしてどうなるか」と、疑問を呈して、次章の冒頭で「天皇の大御心と御心を使い分けて考えるのが良いと思っている」と結論付けている。つまり、天皇が(自分たちが主張する)天皇信仰にそぐわない考えを持つ場合があり、それは大御心を知らないからだ、と結論している。これはとんでもない考え方だ。大御心とは「歴代天皇に一貫して継承されてきた天皇精神である」という。そうなると、実は、現実の天皇のお考えや人となりはどうでも良いことになる。自分たちが天皇精神とする考えにそぐわない天皇は天皇精神を宿していない天皇であるとして排除する、あるいは教育し直そうとする。なんという手前勝手な考えであろうか。これは天皇を隠れ蓑として、自分たちの作り上げた勝手な思想で日本を動かしていこうとする専断政治を目指す政治詐術である。

 次章は、この暴挙をいかにも正当なものと装うために、歴代天皇の事績を我田引水的に紹介し、さらにそれを君民一致、君民共治と自画自賛し、最善の政治形態と言ってはばからない。一体、この人は、天皇が求める民の意思とは、全国民の意思であって、天皇精神はこうだと断定するような人だけの意思ではない、ということがわからないのだろうか?恐らく、自分のイメージする天皇と異なる人格の天皇は大御心のない天皇であると断じるように、自分と異なる考えを持つ国民は国民の資格がない非国民であるとでも思っているのであろう。
実に恐ろしい。自分と同じ考えを持たない人間は、まともな日本人ではない、と考えているのだ。天皇も、国民も、そして歴史も自分たちが良いと思うものだけが真実であり、その他は排除すべきものとする。これは、原理主義である。このような人間が作る国家は、一つの原理に全国民が強制的に賛同させられる全体主義の国家となっていく。神社界の人々は、本当に日本をそんな国家にしたいのだろうか?
 
 次の章は、教育勅語の礼賛である。教育勅語の内容は、少し古いとはいえ、家族や友人などの狭い人間関係を維持するための徳目としては正当である。しかし、これを国家や市町村のような大きな社会に適用すれば、際限のない独裁体制を生み出す最悪の社会制度が現実化する。戦争中の大日本帝國がその良い例である。善良で従順な人々は、一致協力して、アジアを侵略し、欧米と戦い、悪玉国家のレッテルを貼られて、原爆を落とされ、荒廃した日本を作ってしまった。そして一億総懺悔と称して、誰も責任を取らなかった。そのような結果の淵源は、大日本帝国憲法にある。憲法に内在する矛盾が、それを生み出したのだ(本ブログ中の「天皇と神社・神道」参照)。一体、神社界で自分たちが主張している憲法改正の方向が、日本をどこへ引っ張っていくのかわかっている人がどれほどいるのであろうか? ほとんどの人々が、「占領軍が押し付けた憲法から、本当の日本人の手になる美しい憲法に改正する」といった美辞麗句に踊らされて憲法改正運動の片棒を担いでいるのではないか?今なら間に合う。この潮流を止めることができる。しかし、一旦法改正がなってしまえば、次々と具体的な関連法が成立し、昔、戦争反対を唱えることができなかった大日本帝國臣民のように、政府の指導に文句をつけることのできない非民主的な社会が易々と実現し、天皇陛下すら自分の意見を述べることができず、正体もわからない一部の人間が天皇の名を隠れ蓑にして好き勝手な政治を行うような社会が実現してしまうであろう。最後はまた日米戦争となり、第二の敗戦を迎えるかもしれない。荒唐無稽と言われるかもしれないが、実際、田尾氏のような人々は、民主政治や個人主義を毛嫌いし、日本の権威政治、集団主義の価値観を最高のものと考えているので、最後は価値観の差から、欧米との対立となると私は考えている。田尾氏の最初の前置きで、「改正を止めたら日本はアメリカの第五十一番目の州になってしまう」という行は、まさしく欧米的価値観に対する敵対意識を示している。

 神社界の教育は、指導的立場の人の指示に背かないという全体主義の教育であり、その中で育てられた神職が多い。そのような人々は、根幹の指導層に田尾氏のようなとんでもない思想が入り込んでも、その是非を吟味することなく、上意下達で末端の神社まで巻き込んで、社会運動を為してしまう。そして善良な氏子や崇敬者は、一抹の不安を抱きながらも、人の良い神主さんの言うことだからと、簡単に署名活動に応じてしまう。これが、どれほど恐ろしい結果を生み出すのか知る由も無い。そして国が破綻したら、どうしてそうなったのかわからずに茫然自失してしまう。今度こそ、伝統的な神社が地上から消えてしまうかもしれない。こういった事態を何十年ののちに現実化しないために、是非とも、真剣に神政連の運動を考えて欲しい。神政連の会員一人一人の民主的な意見の積み重ねで、この運動は決定されていく。まだ、民主的な手続きは保障されている。しかし、誰も声に出さなければ、中心にいる一握りの人間の意志で組織は動いてしまう。このようにして民主的な手続きで民主主義が潰されていく。私は、黙って見過ごすことは金輪際できない。

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