三英傑と日吉神社

当神社は天下を取った三英傑に御縁のある逸話が伝えられており、戦国時代の武将織田信長公は、当神社の神前にて火起請(ひきしょう)という裁判に立ち合われたと伝えています。

尾張で生まれたといわれる豊臣秀吉公は、清須市朝日の出身である生母(大政所)が日吉神社に祈願し授けれれた神の子であり、それゆえ幼名を日吉丸といい、身のこなしが当神社の神の使いである猿に似ていたと伝えられています。

そして、秀吉公の妻ねね(北の政所)は、その母とともに日吉神社を深く崇敬し三十六歌仙の歌仙額を寄進し、さらに、神 社の垣牆(えんしょう)、神宮寺の薬師堂を造営寄進しています。 天下人となった秀吉公が病を患ったおり、後陽成天皇は勅使を日吉神社に派遣し病気平癒を願われたと記録されています。

江戸幕府を開いた徳川家康公は、小牧長久手の合戦のおり、織田信雄公の軍勢とともに清洲に野営しました。その際、軍兵が当神社を焼き払ったので、当時の祀官が申し出たところ、軍兵の乱暴狼藉を禁止する制札を両将より賜りました。

戦いの後、信雄公は神社の本殿、末社を造営されました。その後、家康公の四男松平忠吉公が清洲城主となり、日吉神社 を大々的に造営修復、社領を寄進し尊崇の誠を捧げられました。
また、忠吉公は弓術を好み射札を度々奉納されています。 神社の西側には当時の垣牆や弓場の跡が今も残っています。

三英傑と日吉神社

御祭神

– 大己貴命(おおなむちのみこと)

出雲に祀られる国造りの神、大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名で、神代よりその幸魂が大和三輪山に祀られております。 「人造り」・「国造り」・「医薬」・「夫婦和合」の神として信仰されています。また、大黒様として福の神の信仰を受けています。

– 素盞嗚命(すさのおのみこと)

天変地災、生老病死など人間の萬の苦しみの象徴であるとともに、それらを祓い除ける神として信仰されており、八岐大 蛇を退治する神話でも有名な神様です。 御神徳は「病気平癒」・「厄除」・「除災招福」等

– 大山咋神(おおやまくいのかみ)

出雲に祀られる国造りの神、大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名で、神代よりその幸魂が大和三輪山に祀られております。 「人造り」・「国造り」・「医薬」・「夫婦和合」の神として信仰されています。また、大黒様として福の神の信仰を受けています。

創祀

光仁天皇の御世、宝亀二年(西暦七七一年)、尾張地方に疫病が流行したので、人々が素盞鳴命を大己貴命と合わせて祀 り、病災除去の氏神としたのが発祥です。その後、大同二年(西暦八○七年)、平安時代の官人、橘逸勢(たちばなのはやなり)が社殿を建立、また、伝教大師による天台宗の布教とともに神仏習合の説が広まり、山王宮と称されるようになりました。

一方、傀儡の人々には、当社が日本で唯一の本来の山王宮であり、「古山王」という舞が当社で舞われていたという伝承があります。

十三世紀末には当神社の興隆著しく、社殿を修築し、祠官を定め社領が奉納されたと伝えられています。尾張の国府が清洲に移されてからは、清洲総氏神として信仰を集め、四千坪以上の境内地に荘厳な社殿を構えていました。
天正八年(西暦一五八○年)、清洲城代織田信張公は、近江坂本の日吉大社より大山咋神と摂社二十一社を勧請し、現在まで伝えています。

また、尾張徳川吉通公は当神社の御分霊を稲荷社とともに、現在の名古屋市古渡町に山王稲荷として奉斎し、その御分霊は現在、当神社の境内末社として祀られています。

明治以降、社名を山王宮から日吉神社と改め、旧社格制度のもとでは、県社として尊崇されました。

山王稲荷神社

御祭神 – 倉稲魂命(うかのみたまのかみ)

このお社は、尾張徳川家四代の殿様の吉通公が、旧丹羽郡石枕村(今の江南市石枕)に、鎮座の稲荷の神祠を正徳三年(一七一三年)に、名古屋城の正南一里程の愛知郡古渡村(今の名古屋市中区古渡町)に、当社の山王神霊の分霊と共に、山王稲荷として移し祀られた神社の分霊を祀る、ご神威高き霊験あらたかなお社として、江戸時代の終り頃に創建されたと、伝えられております。
古来より境内西南の地にて鎮座されておりましたが古朽の為、昭和二十八年十一月五日に住民等が、山王稲荷講を組織して社殿拝殿等を境内東北の地(現在地)に新築し、その後奥宮(現 稲荷社横に鎮座)も創建されました。
平成二十年九月には、崇敬者等により覆屋などが修築され現在に至っております。

このお社は、尾張徳川家四代の殿様の吉通公が、旧丹羽郡石枕村(今の江南市石枕)に、鎮座の稲荷の神祠を正徳三年(一七一三年)に、名古屋城の正南一里程の愛知郡古渡村(今の名古屋市中区古渡町)に、当社の山王神霊の分霊と共に、山王稲荷として移し祀られた神社の分霊を祀る、ご神威高き霊験あらたかなお社として、江戸時代の終り頃に創建されたと、伝えられております。
古来より境内西南の地にて鎮座されておりましたが古朽の為、昭和二十八年十一月五日に住民等が、山王稲荷講を組織して社殿拝殿等を境内東北の地(現在地)に新築し、その後奥宮(現 稲荷社横に鎮座)も創建されました。
平成二十年九月には、崇敬者等により覆屋などが修築され現在に至っております。

山王稲荷神社

境内摂末社(せつまつしゃ)

摂末社
清洲山王宮-日吉神社|境内摂末社

日吉神社宮司兼務社鎮座地一覧

当神社の宮司の管理する兼務社の鎮座地一覧です。

西新町若宮八幡社北名古屋市西之保青野東
弥勒寺日吉社北名古屋市弥勒寺郷北
弥勒寺天神社北名古屋市弥勒寺北出
鍛冶ヶ一色八幡社北名古屋市鍛冶ヶ一色村内南
鍛冶ヶ一色素戔鳴社北名古屋市鍛冶ヶ一色高塚
北野神明社北名古屋市北野天神
法成寺八劔社北名古屋市法成寺蚊帳場
山之腰天神社北名古屋市山之腰五条
宇福寺天神社北名古屋市宇福寺天神
石橋八幡社北名古屋市石橋寺前
中之郷八幡社北名古屋市中之郷南
下之郷春日八幡宮清須市春日冨士塚
上之切縣社清須市春日県
中之切神明社富士社清須市春日神明
下之切天神社清須市春日天神
野田町神明社清須市春日野田町
朝日愛宕社清須市朝日小市場
朝日津島社清須市朝日河原
朝日厳島社清須市朝日河原
一場御園神明社清須市一場御園
一場浅間社清須市一場福島
西田中神明社清須市西田中本城
永安寺津島社清須市清洲永安寺
廻間八幡社清須市廻間郷裏
西市場迦具豆知社清須市西市場下傳馬
枇杷島八幡社名古屋市西区枇杷島
枇杷島神明白山相殿名古屋市西区東枇杷島町柳場
西清洲水天宮清須市清洲
西清洲豊受神社清須市清洲
上本町津島社清須市清洲
中本町三社前清須市清洲
下本町山之神清須市清洲

境内の見どころ

子産石

当神社の一角に古来より「子産石」と称される女陰石があり女性がこの石に触れると立ちどころに懐妊すると伝えられています。 清須市朝日出身の豊臣秀吉の生母(大政所)は、この子産石に触れ、祈願し秀吉を授かり、幼名を「日吉丸」と名付けたとされています。 今は子授かり・安産・夫婦和合の石として奉られています。 この石を触ってお子様を授かりましたとお礼に来ていただける方もいらっしゃいます。 また、女性だけではなくご主人が触っていかれてご懐妊された方など、数多くのエピソードがあります。

子産石

黄金伝説

享保十一年(一七二六年)当時の神主が農民に椿の枯れ木の根を売り渡し、これを掘ったところ
慶長時代の大判、切り金など六十枚、時価にして数億円の黄金が発見されました。
二枚を残して藩役所へ差し出したところ、当時のお金で数百両となり、神社の社殿すべてを
建て直すことができたといいます。この大判には「監物所持」と記されており、松平忠吉公の
重臣小笠原監物が埋蔵したものと推定されます。近年、当神社にはまだ埋蔵金の残りが隠されて
いるのではないかと尋ねて来られる方も増えています。

お申

当神社の神様の使いは申です。
拝殿前に配置されている猿は、青銅製の神申像で烏帽子をかぶり正装をしています。狛犬と同様、阿吽の申です。
1921年(大正10) 奉猿会が奉納致しました。
境内には全部で24体中の像があり、 屋根の瓦の切隅に御幣を持った申が、奥の神殿横にも左右3体ずつ 配置されています。
また平成16年の申年の正月、 異色日本画家井上北斗氏による巨大申絵馬が拝殿右側面に奉納されています。

◆申の巨大絵馬

当神社御祭神のお使いである申(猿)にちなみまして、平成16年(申年)の正月に水墨画家井上北斗氏により神前にて描かれ奉納されました。畳約八畳大(縦3m×横4.5m)の大きさ を誇り、神前にて描かれた絵馬としては最大級となっています。

申の巨大絵馬

◆境内のお申

お申
お申

◆申絵馬 – 伊藤家の崇敬

申絵馬 - 伊藤家の崇敬

松坂屋の創業者伊藤次郎左衛門の祖、織田信長の家臣伊藤蘭丸は故あって商人となり清洲にて絹布商を営んでおり、その後松坂屋で大発展しました。
日吉神社を深く崇敬し、慶長8年に、御幣を担いだ申の絵馬を奉納しました。 当時のものは伊藤家にあるとされ、現在神殿に掲げられている絵馬は明治時代に小田切春江によって描かれた複製です。
当社のお守り、祈願絵馬など授与品にも申は描かれています。

大灯籠

清須市清洲の味噌醸造業宮崎商店の創業者宮崎勘七翁は自身の商業的成功を感謝し、明治初年、中島より庄内川左岸に架かる枇杷島橋の架け替え工事を行いました。 往来の人々はこれを感謝し通行の礼金が多額となったので明治15年、橋の袂に大灯籠を建立しました。 枇杷島橋が二橋から一橋に変えられる時に旧清洲町役場に移設し、その後、清洲役場の新庁舎移転に伴い当神社に寄贈されました。

大灯籠

連理の椿

古来この地に「弘法大師お手植の椿」が在りましたが、既に現存しておらず現在は新たに植えられた椿が、年月の内に共に結び絡み合い、その様は神秘的であり「連理の椿」として縁結びなどの信仰を集めております。

連理の椿

◆神馬

大東亜戦争の際供出した青銅製の神馬を、昭和四十一年午年の人等を中心に、氏子等によって再建されました。

神馬

◆灯籠

杉屋佐助、柴山藤蔵の両名により奉納されました。

灯籠

◆日露戦争記念碑

旧清洲町が、日露戦争を記念し明治39年、当神社の西北に戦役記念碑と出征記念碑を建立しました。 平成の大造営に伴い、これを現在地に移転しました。旅順爾霊山慰霊碑を模したものです。

日露戦争記念碑

◆神楽殿

御神楽奉納の際、使用されます。

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