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新しい社会変動論ー共存性と個人性のダイナミズム

新しい社会変動論ー共存性と個人性のダイナミズム

 

1、人間の認識作用と社会意識

 社会変動は社会の骨格をなす社会構造と人間の社会意識との相互作用によって起きると考える。その詳細を検討する前に、人間の社会意識について考える。

 人間の社会意識を考える前に、人間の認識作用そのものを考えてみる。なぜならその構造自体に人間の人間たる所以が隠されているからである。

 デカルトが「Je pense, donc je suis」と喝破した時、近代的自我の確立が始まった。主観が認識して得たものと実体との関係が哲学の永遠の課題となった瞬間でもあった。

 カントの批判哲学の中で、最大の問題は、個別の主観が生み出す認識の客観性、つまり「人々が五感で認識した結果が同じ内容として共有されるのはなぜか」という点をどのように証明するかということであった。カントは、「物自体(Ding an sich)」という概念を創出し、それを認識の客観性の限界とすることで、問題を回避した。これがいわゆる認識論のアポリアである。

 ヘーゲルは、弁証法という論理学を作り上げ、時間的構造を論理に内在させることによって、その解決を図ろうと試みた。すなわち、主観と認識対象との相互作用を通じて認識が発展し豊かになると考えたのである。しかし、これは主観が認識作用の自己展開を通じて絶対精神に至るという観念論を作り、認識のダイナミズムと社会性を示したが、認識論のアポリアの根本的な解決には至らなかった。合理論と経験論の断絶は依然として残ったのである。

 この認識論のアポリアは、後に論理実証主義の成立によって、言語の論理構造の共通性という観点から、外形的には証明されたように見えた。しかし、それは人間の認識の豊富化と意識の実態を説明することはできなかった。

 この問題は、現象学による「間主観性(Intersubjektivität)」の発見によって、ようやく理論的に解決の道が開かれた。さらに発達心理学の精緻な分析の結果、弁証法的な認識発達の過程が実証的に明らかにされ、人間の認識の社会的・時間的構造が具体的に説明されるようになったのである。

 間主観性の発見は、認識が単なる個人の内的作用ではなく、人間相互の関係の中で成立するという事実を明らかにした。すなわち、他者の存在を前提として、初めて自己の認識が確立するということである。このことは、認識の主体が「孤立した個人」ではなく、「共に社会を作る存在」としての人間であることを示している。

 ここで、人間の本質的性格としての「共存性」が明確になる。人間は、他者との関係性を通してしか自己を確立することができない存在である。言い換えれば、人間の意識は常に他者との相互作用の中で生成される。人間の共存性とは、このような相互作用的な存在構造を指すものであるといえよう。

 さて、人間の認識の客観性は、対象が人間の意識と関係ないもの、例えば水とか金属である場合には、容易に成立する。しかし、人間の意識に関係するもの、例えば社会である場合、それは人間の意識的な働きかけによって変化するので、相互作用を考えなければならない。自然科学と社会科学の対象はこの点において根本的に異なっていると考えて良い。

 それゆえ、社会変動を考える上では人間の欲求による社会への働きかけが変動を起こすと同時に、社会構造の変動が人間の社会意識に変化を生じさせると考えるべきである。この相互作用は螺旋のように繋がっていくこととなる。

 基軸になる人間の社会意識は、生活の安全と豊かさへの欲求である。

 人間が、広く言えば人類が自分たちの社会を作り変えようとしてきた歴史を見れば明らかなように、人々は、より多数の人々がより多くの物質的、精神的な満足感を得られるような社会を求めて改良を続けてきたといえる。個々の人間は、さまざまな欲求を持って社会に働きかけ、その構造を作り変えてきたのであるが、総合的に見ればその欲求は、物質的な充足感、すなわち生活資源の充実であった。十分な食糧の確保、安全な住居、寒暖差に耐える衣服、そういったものはすべて人類発生以来の不可欠な欲求であった。これらの生活必需物資の豊富化のためには、生産技術の進歩が必要であり、それによる生産力の発展は人類の個体数を次第に増加させるとともに、社会生活様式を変化させた。過去7万年の人類史を概観すれば、そのように考えて良い。

2、人類史の区分

 人類史を理解するためには、社会の変動を時代区分して把握することが有効である。ここでは、生産技術の革新と社会構造と社会意識の変化を契機として、五つの時代に整理する。

1 原始社会
 原人は、森から平原へ出て二足歩行を始め、家族単位で暮らしだした。そこでは、日々の食料の調達が毎日の生活のすべてであった。
 現生人類の発生の頃は、人類は家族単位で生活し、それがいくつか固まって暮らすムラ社会を伴っていた。成員数は、多くとも数十人から百人程度であった。食料の調達や住まいの確保、自然災害や獣からの自衛が生きるすべてであった。もちろん生殖の営みは欠かすことができない。
 人々は男女の役割分担のもと、長幼の序や伝統や慣習や初期の宗教儀礼等を社会の紐帯(Social Solidarity)として生きていた。つまりある程度の組織的な序列化はできていた。
 また、個人意識は未成熟であったので、明確な私有観念は無かったが、ある程度の私有物はムラ単位、家族単位、そして個人単位でさえ存在していた。
 これが第一の時代である。現生人類が誕生してから1万年くらい前までの19万年間はこの時代であった。

2 食糧革命から近代化まで
 そこへ、第一次産業革命とも言うべき、食料革命が起きる。農耕と牧畜の開始である。
 これにより食料の安定供給が実現し、人類の個体数は確実に増加し出し、紀元が始まる頃には地球上で2.3億人(国連人口基金による推計)を突破した。
 もちろん、食料の安定供給は備蓄を生み、それは資産となり、貧富の差が生まれ、ムラ社会の階層化と序列化が進んだ。
 社会の紐帯として宗教が発達し、思想ができ、様々な法が生まれた。
 そして、食糧危機の時には隣村を襲って食料を確保する、すなわち戦争による略奪が始まった。
 人類は、戦争に勝つために連携し、小国家から大国家を作り上げ、限られた富を奪い合うための戦争に明け暮れた。軍隊の序列化や社会の階層化は当然のものとなり、この状態が18世紀まで続く。
 これが第二の時代である。 約1万年前から200年前までの8800年間がこの時代である。

3 近代化の時代
 14世紀になると、イスラム社会で保たれたギリシャ・ローマ文明が刺激となり、ヨーロッパでルネサンスの時代が始まり、それは宗教改革を生み、大航海時代という異質文明の相互アクセスを生み、自然科学の発達をともなって、啓蒙思想の発現につながっていく。
 この啓蒙思想は、それまで能力の差異による支配、非支配の関係を当然としてきた人類に、初めて人権の平等と自由という概念を与えた。それは一神教の中で生まれた「神の元の平等」から「神」を取り去ることによって生まれたとも言える。宗教の世俗化が始まった瞬間でもある。
 啓蒙思想は、「王が権威や権力で国民を治める国家」という国家の概念を覆し、社会の成員の社会契約による国家、すなわち、「国民が等しく国家の維持に責任をもたなければならない」という「国民国家」を生み出した。
 これは法の性質を根本的に変えた。それまでの上位のもの(支配者)が制定し、下位のもの(支配される人々)に与える法というものから、国民(社会の成員)の総意で制定し、社会を統御する政府(社会の指導者層)を縛り、同時に社会に安定をもたらし、人権の平等と自由を保障する法に変わったのである。つまり、法の力のベクトルが変わったのだ。
 これが民主主義であり、立憲主義であり、自由主義であり、自由主義市場経済なのである。
 もちろんいまだに国民国家を標榜しながら、実態は権威主義で、指導者が国民に法を強制する国家も存在している。しかし、経済社会が発展すれば、人々の意識の個人化が進むので、いずれは、それらの国々も民主主義に変わっていくと考えられる。
 18世紀末に始まる第二次産業革命、すなわち機械革命とそれに続く重工業化によって人類の生産力は飛躍的に伸び、近代化が始まった。
 しかし、それは国家間による植民地争奪戦を生み、国民国家の出現とも相まって、帝国主義に基づく激しい戦争が繰り返されることとなった。第一次、第二次の両世界大戦、冷戦を通じて、20世紀は国家の時代となり、他方では、民族自決と国民国家が結びつき、多数の国家が発展途上地域に生まれた。
 しかしながら、この間、人類の個体数は生産力の発展に伴って伸び続け、20世紀末には60億人を超えるまでになった。これが第三の時代である。
 この近代化の過程は人間の意識に強い衝撃を与え、反近代の様々な動きが表面化した。それは次章で述べる。18世紀から20世紀までの約200年間である。

4 デジタル化の時代
 20世紀の冷戦の終了から始まったデジタル化という第三次産業革命(IT革命)は、近代化の完成と社会のデジタル化を進め、人類の生活様式(文化)の画一化を生み出した。すなわち人類の地球化が始まった。グローバル化の時代である。
 この時代は、グローバルなサプライチェーンが発展し世界の生産力は伸び続け、次第に発展途上国を巻き込んでいった。生産拠点の世界展開と労働移民の増加が激しくなり、発展途上国の先進国へのキャッチアップが始まった。
 この経済成長に伴い、世界の貧困層は劇的に減少し、分厚い中間層が生まれるとともに一部の極端な富裕層をも生み出した。
 そしてそれに伴い環境破壊や資源の枯渇が人類全体の解決すべき命題となって急浮上してきた。
 一方、先進国ではグローバル化に伴う移民や文化摩擦、国家の流動化によって生じた国内外の諸問題に対して、グローバル化に反対し問題解決を図ろうとするポピュリズムが盛んとなった。
 また、一定水準の経済発展を遂げたいくつかの発展途上国の世界政治への積極的な関与が始まり、これらの動きは世界的な反グローバルのうねりとなり、再び諸国家角逐の時代がやってきた。
 20世紀に反近代の動きが顕著となったが、第二次世界大戦後には自由貿易体制による豊かさへの追求が本格化し、近代化の波が反近代の波を押し潰した。
 人類の生産活動の進展による豊かな社会への渇望は地球上のどの地域でも同じであるので、いずれ反グローバルの動きは収斂し、再びグローバル化と人類の一体化が始まると予想する。これが第四の時代、すなわち現在である。

5 スマート社会

 現在、研究開発が進んでいる人工知能(AI)とロボットの技術が組み合わされ、それが社会に適用されるようになれば、スマート社会と呼ばれる社会が実現するであろう。
 それは、「必要なもの・サービスを、必要な人に、必要な時に、必要なだけ提供し、社会の様々なニーズにきめ細やかに対応でき、あらゆる人が質の高いサービスを受けられ、年齢、性別、地域、言語といった様々な制約を乗り越え、活き活きと快適に暮らすことのできる社会と考えられる」(日本・内閣府・科学技術基本計画より)

6 スマート社会の展望

 グローバル社会の経済の発展を受けて、世界中が先進国同様の生活を享受するようになれば、世界人口は少子化の進展によって、21世紀末には減少に転じ、おそらく22世紀には50億人を下回り、さらに減少を続けると予想される。
 そうであるならば、地球環境の破壊も穏やかとなり、各地で適切に管理された自然環境が復活し、人々は都市中心の生活を送ることになるであろう。その都市においてスマート社会が実現する。
 もちろん、この発展は、近代化やグローバル化と同様に跛行的であり、先進国と発展途上国では、相当のずれが生じ、それが軋轢を生むと考えられる。また、社会の変化が急激であるが故に近代化やグローバル化以上に反スマート化の動きが社会の中で激しくなることも予想される。
 それは、反近代の運動の中で機械の打ち壊しがあったように、反AIや反ロボットの運動となって現れるかもしれない。まして、これらが社会の中で利用されるようになれば、そのために職場をなくす人も増えていくであろう。もちろん先進国は少子化社会によって労働人口が激減し、グローバルサプライチェーンの完成によって世界中が経済発展を遂げた暁には移民流入による代替もできなくなるであろうから、AIやロボットによる肩代わりも必然的になされてくるであろうが、それにより職場を失う人々の痛みを和らげる政策が必要とされるであろう。
 そして、その後にはいよいよ経済の循環を正常に保つために消費者を社会制度的に創出することが必要となってくると思われる。労働者がAIやロボットで代替されるので、消費者を作り出すことを考えなければ経済循環が成立しないからである。 
 多くの人間が生産労働から離れてしまい、一部の人間のみが経済競争に従事し、富の獲得を競争する時代となることが予想されるが、その具体的な姿はまだわからない。
 ただし、その萌芽はすでに現在の社会に表れている。多くの人々はデジタル社会の中で十分な給与が保障される職場に就くことが出来ずに窮乏化している。急激に変動するデジタル社会に適応できる人々のみが、高額の給与を受け取ることができる。また、 I T関連で起業し、新しい富裕層になる人も多い。
 A Iの活用が進む中で、巨大なハイテク企業であるMgnificent7では、大幅な事務職の人員削減が行われ出している。サービス産業においても、ロボットの活用が盛んである。自動車の運転は間も無く自動化されるという。
 労働者の働く場所は失われつつあるのが現状である。
 スマート社会の究極では、才能に優れ、経済競争に専念する一部の人々が、経済循環の中で、世界的なサプライチェーンを利用して消費財を作り、販路を広げ、富を蓄積し、富裕層としての暮らしを満喫する。しかし一方、経済循環を作り出さなければ、富を得ることができないので、消費者を作り出すための富の再分配の原資として多額の税を負担せざるを得ない。そしてもちろん経済競争に参加し、富を獲得しようとすることは個人の自由であり、誰もが参加できるが、簡単ではない。それは現在も同じである。
 富の再分配については、ベーシックインカムや社会福祉の充実や税制の再編成など、さまざまな試みがなされようとしている。
 このような仕組みが予想される社会構造であり、そこでは、大部分の人類は、生殖の欲求、物質的な豊かさへの欲求といった原初からの人間の欲求から解放され、適度な生活費を配給され、趣味や自己実現の世界に生きるようになると予想される。もちろん経済競争に挑むことは自由であり、誰もが参加できるので、それを試みる人々も多数現れるであろう。
 それは、現在の日本での若者の意識を考えても、ある程度理解できる。彼らは、経済的成功への欲望を捨てて、個人的な趣味の世界に生きようとしている。あるいは、少子家庭や独身家庭ですごし、子供を持とうとしない。一般的に、人間は先進国となり、豊かな生活になれば子供を作るより個人的な趣味や活動を大切にするようになる。
 最も必要であるのは、こういった社会の中で、人間がより高次の意識に覚醒し、社会的共存を実現できることである。

3、共存性と個人性 

 人間は社会的動物であると言われる。これは人間は本来、家族やムラといった集団で助け合って暮らすということである。この性質を共存性(Co-existiality)と呼ぶこととする。また、個人として自由に生きていきたいと望む性質も有している。これを個人性(Individuality)と呼ぶこととする。

 人間は、各人が独自の視点と経験を持ち、自らの意志に基づいて判断し行動する「個人」である。すなわち、人間は認識の過程でも明らかとなったように、共存性を基盤としつつも、その中で自己の個性を形成し、他者と区別される主体として生きている。この独立性こそが「個人性」である。したがって、人間の意識は「共存性」と「個人性」という二つの意識を併せ持つ構造として理解される。共存性と共に個人性があるので、人間社会の歴史的進化とは、この二つの性質のより良いバランスが模索されてきた過程にほかならない。共存性と個人性は、人間意識の根本的な二側面である。人間は共に生きる存在であると同時に、自己を確立しようとする存在でもある。この二つの側面は、緊張関係をはらみながら、相互に補完しあう形で歴史を形成してきている。

 そこで、この共存性と個人性のバランスの変化を歴史的にみてみる。特に近代化以降に個人性が実体化してきたので、それ以降の変化が重要となる。

 人間がその社会意識に基づき、求める方向に社会を変革しようと主体的に社会に働きかけるとき、社会構造は変化する。例えば、啓蒙思想に基づき、民主主義社会を実現しようと市民革命を起こせば、社会構造が変化する。共産主義を理想として革命を起こせば、劇的に社会は変化する。世界的に生産力を高めようと技術を磨き、経済交流を促進し、互いの結びつきを深めれば、社会は必然的にグローバル化していく。

 社会構造が変化すれば、それは人間の社会意識に変化をもたらし、共存性と個人性の意識のバランスが変わる。そして新しい社会意識は社会をさらに変化させようとする。

 社会意識と社会構造は互いに影響し合って社会を変化させていく、つまり歴史を作るのである。この場合、どちらが先かと問うことは無意味である。

 さて、「共存性」には、生得的なものと理念的なものがある。生得的なものとは、基礎(自然)共同体である家族やムラという集団の中で体験的に会得された。それは、成員が互いに信頼と愛情をもって結びつき、その集団を守るという性質である。

 生得的な「共存性」は、猿人の時代から前近代、すなわち数百万年という長い年月のなかで人類が身に付けた性質であって、それはもちろん現代にも生きている。卑近な例では、テレビドラマなどで犯罪の理由として家族のための殺人とか復讐とかがよく採用されるのは、それが人々の感情に受け入れられ易いということである。これは、家族という「共存性」が人々に感情移入をさせるほど普遍的であることを示している。

 一方、全人類を対象とする理念的な「共存性」については、前近代においても、宗教や思想の理念として提示されることはあったが、なかなか受け入れられることは難しかった。人間は、身近で具体的に「共存」する仲間のために、他の人間集団と戦争をして、互いに殺し合ってきたからである。互いに殺し合っている内は、人類全体といった大きな範囲で共存性を具体化することはできない。ただ、理念的なものとして示されることはできた。

 この理念的な「共存性」は、近代に至って、注目を浴びる事となる。それは、理念としての「近代的自我」が確立し、「個人」概念が現実化し、近代的な個人意識が具体的に人間に備わっていく中で、「共存性」との葛藤が生まれ、生得的な「共存性」は圧倒的で急速な近代化の中で失われ、そのストレスの解決策として理念としての「共存性」の実体化が求められるようになるからである。

 啓蒙思想の中で、理念的な個人意識が語られ、それは近代的自我として確立していった。そこでは、「自然権としての自由」が全ての人々に平等に存在するとされた。そうなると社会の中では「万人の万人に対する戦争」という状態が発生する。これを防止するために、社会を構成する人々は互いに社会契約を結び、自由権の一部を放棄し、戦争状態を防ぐものとされた。ここから、個人を基礎とする民主主義という政治社会構造が理念的に作られた。そして歴史を通じて現実化された。市場経済社会という社会構造も、同様に個人間の自由で平等な経済的取引を基礎として構想され現実化していった。

 したがって、啓蒙思想による近代社会理論の中には「共存性」という概念は全く存在しない。個人を主体とした社会契約のみで人々は結びついている。そうなると、近代化された社会では、ムラや家族は解体し、人々は孤独な群衆となり、個人化して、生得的な「共存性」は「近代的自我」と衝突し、悲鳴を上げる事となる。かくして「共存性」を求める反近代のうねりが近代社会の中に生まれてくる。

 人々は、理念としての「共存性」の実体化を求め、マルクスの理論はその現実的な処方箋としての具体的な社会像を描いて見せたから、共産主義は、あっという間に全世界に広がったのである。生憎その内容に不備があったために、20世紀末までにその歴史的な役割が消滅した。

 「近代的自我」は、それぞれの独立した人格を生み出すので、それは個性となる。

 近代人の最大の矛盾点は、自己の中で、生得的な「共存性」と啓蒙思想に導かれた理念的な「個人性」がぶつかり合う事である。そして、民主主義と市場経済を基本とする近代社会に現実的に生きることにより「個人性」は理念的なものから次第に経験的且つ実体的なものとなっていくので、この矛盾はますます激しく避けられないものとなる。生得的な「共存性」は次第に失われ、孤独で社会紐帯の意識が希薄な個人が氾濫する。つまり「個人性」は経験的になり、「共存性」は理念化していく。

 「共存性」を人間の本質と考え、社会を「共存性」によって結びつけようとする政治家は、全体主義の社会を理想として、「個人性」を潰し、成員の全てが共通の目標に向かって進む社会を夢見た。国家社会主義や共産主義の国家はそのようにしてつくられたが、それは規模の大きな共同体を志向するが故に疑似共同体となって、社会の連帯感を形成する際に、国民を「共存性」を理念化したもので縛る以外の方法を持たなかった。具体的には家族道徳であり、社会に対する奉仕であり、国家に対する忠誠であった。しかし、社会が近代化していけば、近代社会特有の「個人性」と衝突し、矛盾を露呈し、滅び去った。残存する権威主義の国家群は、「共存性」と「個人性」をどのように調和すべきか未だに結論を見出していない。

 「個人性」と社会契約を主体として構成されている国家は、現在のところ、民主主義の国家群である。そこでは、生得的な「共存性」に基づくカルトのような反社会的な動きが生まれることもあるが、法と警察権力により治安は保たれている。しかし、人々は近代人の矛盾、社会病理に苛まれている。

 社会契約のかなりの部分を放棄し「個人性」を野放しにしようとする思想もあるが、今のところそのような国家は存在しない。リバタリアニズムがそうである。

 グローバル化が進む今日に至って、地球上に住む全ての人間が協力、協調して対処しなければならない問題が山積するようになった。特に地球温暖化に象徴される環境問題である。全人類が協力して解決を図らざるを得ない問題が発生し、そこで初めて、理念としての「共存性」が現実化した。

 前近代の生得的な「共存性」では、全ての人類が共存することはできない。人々は自己の属する集団(国家)のために戦うからである。全ての人間が、個性を持って自立し、その上で、理念としての「共存性」を理解し、それを現実と結び付け、実体化しなければ、全人類の課題の解決や平和はあり得ない。

 しかし、グローバル化による世界の流動化と激しい社会の変化は、再び人類の社会意識に大きなストレスを与え、その反動として移民排斥、国家依存主義という反グローバリズムの潮流を産んだ。そして現在の不安定な状況が生じた。

 一方では、技術の進歩は目覚ましく、AIの発明やロボット技術の進化は、前章で述べたごとく、生産の一層の合理化と爆発的な経済成長を可能とすると思われる。

 生産力の一層の発展を求める人間社会は、反グローバリズムの動きを乗り越えて、21世紀末には更なる進展を見せるであろう。

 そして、生産現場のAIとロボットによる肩代わりは、労働者そのものの存在を無用のものとするに違いない。これが、第4次産業革命と呼ばれるスマート社会の実現である。その中で、大衆は大量に労働から疎外されてしまう。

 そして次には、世界的な経済循環を確保するために、富の再分配が制度化され、消費者を作り出すことが議論されるであろう。資本主義の再設計である。

 しかし、その過程は簡単ではない。おそらく、社会のスマート化は人間の社会意識に相当のストレスを与えるので、前章に述べたように、反スマート化の動きが現れるに違いない。しかしながら反近代や反グローバルの波が乗り越えられたように、人類の生産力に対する欲求は反スマートの波をもを乗り越えて、スマート社会を実現するであろう。

 現在、先進国で議論されている格差社会は、経済競争による勝者と敗者の分別の結果である。それが極端に進めば、反スマート化の大きなうねりを作り出してしまう。これを防ぎ、スマート社会に軟着陸させるためには、経済競争の自由を確保しながら、格差を是正し、一定の経済水準を持った消費者を作り出さなければならない。例えば、現在の日本で議論されている給付金付き税額控除などはその先鞭をつける試みとなろう。つまり、先を見越した資本主義の再設計にそろそろ進まねばならない。

 そのような過程を通して、労働から解放された多くの人々は、自己実現の暮らしを選択し、自己の社会意識を磨くことに専念するであろう。そして、前章に述べたような新しい社会構造が実現しよう。

 労働から離れ、個人的な趣味や活動に生きるようになって、より高次なものに人類の意識は変容すると予想される。

4、資本主義の変遷

 資本主義という経済システムは常に変遷を重ねてきた。

 ここで、近代化成立以降の資本主義の変容を、人間の社会意識の内での共存性と個人性の価値観のバランスの変動として考えてみる。

 当初の出発点は、レッセ・フェール、インビジブル・ハンド、夜警国家といった言葉に象徴されるように、古典経済学に基づく、野放しの自由競争であった。そこでは労働者は極めて悲惨な状況に見舞われ、好況と不況の波が繰り返されていた。

 紡績工場では児童や女子の長時間労働が行われ、労働者は使い捨ての労働力として扱われた。

 マルクスが共産党宣言を書いたのは1848年であるが、それより前、イギリスで1833年に工場法が成立した。その中で、一般労働者の12時間労働、9歳未満の労働禁止、13歳未満の児童労働は週48時間・1日最高9時間労働、18歳未満の夜業禁止、工場監督官・工場医の設置などが定められた。その後工場法は改訂を重ね、1874年には労働時間は週56時間に制限された。

 その後、1919年に採択されたILO第1号条約では1日8時間・週48時間労働を定めた。

 労働組合法は1871年イギリスで制定されたのが始まりで、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が労働三権として確立した。

 1884年にはフェビアン協会が結成され、穏健な社会主義の政治団体が模索され、それは1906年の労働党の結成に繋がった。労働党はマルクス主義派を排除した、議会主義を標榜した社会主義政党であり、資本主義の漸進的な改革を目指した。

 このように、最初の資本主義の改良は労働者の人権を認め、それを法律的に保障し、労働者の政治参加を認めるという変化、すなわち市場への経営者と労働者の平等な参加を確立しようとする変化として成立した。共存性の追求である。

 もちろん、これらの変化は、共産主義理論に触発された激しい労働運動があって、その反省の上に資本主義に改良が加えられたのであり、その改良を促した社会主義や共産主義の運動の社会的役割を評価しなければならない。

 イギリスで始まり、北欧で結実した福祉社会の国家も、同じような文脈で成立した。

 ジョン・メイナード・ケインズは1936年に『雇用、利子および貨幣の一般理論』を出版した。これは市場への政府の関与により経済成長を図る理論として、第二次世界大戦後の長期のデフレと経済の縮小均衡に苦しんでいた西側諸国の政策担当者たちによって採用された。政府は財政・金融政策を通じて市場に介入し、政府の財政投資により需要を喚起し、金融政策により景気の調整を行う術を得た。ケインズ経済学による国家経済運営の始まりである。

 ブロック経済への反省から、資本主義の先進国は、関税障壁をなくし、貿易の自由化をめざし、「多角的交渉」を実現することを目指したGATT(General Agreement on Tariffs and Trade)協定を結んだ。国連のIMF(国際通貨基金)と世界銀行の機能とともに、ドルを基軸通貨とするブレトン・ウッズ体制を作り、戦後の自由貿易を支えた。その後GATTはさらに強化され、WTOとなった。

 この段階では、資本主義経済は、より平等に、より安全に、より開放的に、成長したと言える。やはり共存性が強化されたのである。

 それが転換したのは次の事件である。

 1971年、米国大統領ニクソンが金・ドル交換停止を宣言した。信用の裏打ちとしての金を喪失したドルは経済の信用力による価値のみで存在することとなり、各国通貨は変動相場の荒波の中で生きることとなった。

 これ以降、自由貿易という開放経済のもとで、一国の経済は為替相場を通じて世界経済と直接的に連動するようになった。そのため、政府による財政出動や金利の変化によるマネーサプライの調整といった内政的な経済政策が、為替変動を媒介として国際市場に吸収され、しばしばその効果を無効化される状況が生じるようになった。

 たとえば、政府が景気浮揚を目的として財政支出を拡大すれば、国内金利が上昇し、外国からの資本流入によって自国通貨は上昇する。通貨高は輸出競争力を低下させ、外需の減退を通じて財政政策の効果を相殺する。同様に、金融緩和によるマネーサプライの拡大は、為替の下落を通じて輸入物価の上昇を招き、インフレ圧力の高まりをもたらす結果となる。

 このように、為替変動を媒介とした国際的な資本移動は、国家の経済主権に制約を与えることとなった。ここに現れるのが、いわゆる「国際金融のトリレンマ(impossible trinity)」である。すなわち、「為替相場の安定」、「資本移動の自由」、「金融政策の独立」という三つの目標は同時に達成することができず、いずれかを犠牲にせざるを得ないという理論的制約である。1971年以降の国際経済において、各国は資本移動の自由と変動相場制を容認する一方で、金融政策の独立性が弱まることとなった。

 1980年前後になると、アメリカのレーガン政権とイギリスのサッチャー政権は、金融制度の大規模な自由化を行なった。いわゆる新自由主義的経済政策(neoliberal economic policy)は、国家による金融・資本取引の規制を大幅に撤廃し、市場を放任する方向へと大きく舵を切った。

 ちなみに、この新自由主義の経済政策は、ケインズ理論に誤謬を発見したハイエク、ケインズ理論による経済政策が変動相場制や資本の国際移動によって無効となった事実に基づき新しい経済政策提言を行なったミルトン・フリードマンなどによって早くから示されていた。いわゆる小さな政府と規制緩和による経済政策である。個人性への転換である。

 この政策転換は、資本移動の国際的自由化を一層加速させ、実体経済に基づく生産・貿易の循環をはるかに超えた金融経済(financial economy)を形成することとなった。金融取引が拡大し、実際の財やサービスの流通を裏づけとしない「マネーの運動」そのものが経済成長を牽引するようになったのである。 

 この時期に発達した金融派生商品(デリバティブ)やレバレッジ取引は、インターネットの発明によって取引の回転速度を飛躍的に高め、同時に経済の不安定性も増大させた。資金は実体経済の生産活動を支えるためではなく、より高い収益を求めて瞬時に国境を越えるようになり、実体経済と乖離した金融資本主義が確立した。

 こうして、1980年代以降の世界経済は、国家の枠を超えた資本の移動と、実体経済を超える金額の金融取引を可能とする新たな段階に突入した。金融経済の肥大化は、国家の経済政策を制約する力を一層強めるとともに、市場のコントロールを限りなく難しいものとした。

 資本主義経済は、より不安定に、より危険に、より開放的になった。

 実は、日本の失われた30年もここに起因している。バブル後の債務処理や少子化による労働者不足や製造拠点の海外移転などの要因もあるが、財政政策や金融政策が実体経済の中で効果を十分に表すことができなかったのは、金融経済に資本が流れたり、世界経済の影響を受けたからである。

 21世紀に入り、グローバル化の中で、金融の自由化と資本移動の国際的流動化が益々進み、世界経済は「グローバル金融資本主義」と呼ばれる新たな段階に入った。この体制のもとで、経済の中心的機能は実体経済から金融経済へと移行し、価値の創出は労働や実物投資よりも、資本の移動そのもの、すなわちマネーゲームによって左右されるようになった。資本収益が実体経済の生産労働による収益より大きくなった。そして先進国は為替の安定を放棄して、資本の移動と金融政策を優先するようになった。

 実体経済の面では、グローバル化は世界的な経済成長を促し、貧困層の減少と中間層の拡大、そして富裕層の増加を促した。

 金融資本は、国境を超えて瞬時に移動する流動性を獲得したが、その結果、資本の集中と格差の拡大は著しく進行した。グローバル金融資本主義の中で、資本を保有する者は莫大な収益を得る一方で、労働者は賃金抑制や雇用の流動化にさらされ、所得分配の不均衡が構造化されていった。すなわち、富は金融資本に集中し、リスクは労働者と生活消費者の側に転嫁されるという構図が定着したのである。

 この過程は、経済的格差のみならず、社会的・文化的格差をも拡大させた。資本市場に直接関わることのできる人々は、情報・教育・機会においても優位に立ち、社会全体が分断化していった。
 とりわけ、金融資本主義と新自由主義的経済のもとでは、政府による所得の再分配機能が縮小され、市場の効率性を重視する理念が支配的となったため、人間の共存性(Co-existiality)よりも個人性(Individuality)を優先する社会意識が強まった。

 グローバル化の波は、かつて国家内部で調整されていた社会的矛盾を世界的なものへと拡散させた。低賃金労働の海外移転、移民労働の増加、そして金融危機に伴う資本の急速な流出入は、各国の社会構造を不安定化させた。こうして、グローバル金融資本主義は、経済の成長を促す一方で、社会的統合を解体する力として作用するようになったのである。

 グローバル金融資本主義の下で拡大した格差と不安定化は、やがて各国において社会的亀裂を深め、政治的反動としてのポピュリズム(populism)と反グローバリズム(anti-globalism)の潮流を生み出した。金融経済の埒外に置かれた人々は、グローバル化がもたらした利益の分配から取り残され、国家や制度による保護を再び求めるようになった。

 ポピュリズムは、一般に「エリート対大衆」という二項対立の構図を強調し、既存の政治体制や国際秩序に対する不信を表出する運動として現れる。

 グローバル化がもたらした「流動性の時代」において、人々は自らの属する社会が解体され、国家が消滅する不安感を抱き、ナショナルな枠組みへの回帰を目指す。

 このような反動は、アメリカにおけるトランプ現象、イギリスのEU離脱(Brexit)、欧州諸国の極右政党の台頭などとして具体化した。これらはいずれも、グローバル資本主義に対する大衆の拒否の現れであり、国家主権の回復と国民的統合の再構築を訴えるものである。しかし、その正体はしばしば排外主義や虚偽情報に依拠し、民主主義の制度的基盤を揺るがす性質を帯びている。実体経済の堅実な成長無くして、生活資源の豊富化と格差の是正は成し難い。あるいは所得の再分配機能の拡大無くして格差の是正は成し難い。しかしポピュリズムの指導者が、このような正しい政治を行うことは極めて期待し難い。なお、米国左派ポピュリストのバーニー・サンダースは、国内企業の製造拠点の海外移転に反対し、資本の国際化を容認する自由貿易に反対している。この意味では、彼も反グローバリズムの立場であるといえよう。

 ここに見られるのは、経済構造の変化が社会意識を再編し、政治形態を変質させる過程である。グローバル化が進展するほど、個人の生活は国際的な資本の運動に左右され、国家による政治の再分配機能は縮小する。その中で、失われた「社会的共存の枠組み」を回復しようとする欲求が、ポピュリズムという形をとって噴出するのである。

 したがって、ポピュリズムの台頭は単なる政治現象ではなく、グローバル資本主義体制がもたらした社会的矛盾の反映であり、近代以降の「個人性」と「共存性」の均衡が崩壊し、個人性が突出していることを示している。反グローバリズムは、失われた共存性を回復しようとする衝動であると同時に、それを国家や民族の結束という形でしか表出できないという現代社会の限界を示している。

 資本主義経済は一層不安定で、一層危険で、その破局は人類の運命を左右するほどとなった。

 しかしここにきて、新しい傾向が現れてきた。直近の選挙で、ニューヨーク市の市長に、民主社会主義者を自称するゾーラン・マムダニ氏が選ばれた。彼は、アフォーダビリティ(手の届く生活コスト)政策を主要政策として掲げている。生活消費者の支援と救済を目的としているのだ。しかも経済成長をも同時に考えるという。それは、社会の共存性と個人性のバランスの調整を意味している。

 もちろん、単一の都市選挙の結果だけで世界的潮流を予測することはできない。しかし、この動きは、都市住民が、再分配と生活保障を重視する政治へと回帰している兆候として考えられる。

 このような選挙結果が相次げば、米国で、所得格差是正の動きが始まり、失われようとした民主主義が復活し、さらにグローバルな金融資本主義に規制が加えられ、実体経済が確実に成長し、人間の社会的共存の道が開かれるのではないか? 世界経済を主導する米国において、経済の安定と安全のための新たな変化が資本主義に加えられるのであれば、人類の壊滅的な危機は免れるのではないか?

 実際、今必要なのは、反グローバリズムの動きではなく、実体経済の中で明らかになってきた富裕層と大衆との所得格差を是正し、大衆を経済社会からドロップアウトしないように支えていくことではないか?そうしなければ、経済社会の中で消費者の力が落ち、経済流通そのものが減退する危険が生じてしまう。ビリオネアと呼ばれる超富裕層の人々も一部の人たちは既にそれに気付き、莫大な課税負担に応じようとしている。

 経済社会を成り立たせているのは、健全な労働者と健全な消費者の存在である。政治家や経営者はそれを前提として経済成長を図っているに過ぎない。そして、今、危機に瀕しているのは健全な消費者である。

5、新しい社会契約

 人間の意識が変化し、全ての個人が実体的な「共存性」を理解し、世界的な環境や平和共存の問題を人類全体の問題として認識し、それを現実化しようとする明確な意思を持って、共存性と個人性のバランスを取る時、新しい世界レベルの人間の社会を基礎とする社会契約が生まれて来る可能性がある。

 すなわち、人間の意識が、個人性と地球的な共存性を共に実体化したものとして体得し、その二つを弁証法的に統合し、絶えずより良い形を探り続けるようになった時が、人間意識が覚醒する時であると考える。

 倫理の領域においても、この構造は明瞭に現れる。倫理は、個人の自由な意志と社会的責任の調和を図るところに構想されなければならない。その根底には個人性と共存性の弁証法が働いている。すなわち、自己の行為が他者との関係性の中で考えられるとき、はじめて倫理的判断が成立する。

 個の自立を基礎とした共存。これを理解することによって、真に成熟した人間社会の理念が構想される。

 したがって、未来社会の課題は、共存性と個人性の弁証法的統合、すなわち「共に生きる個人」の確立にある。これは人間の意識の革命的な覚醒を意味することになるであろう。認識の発達が間主観的であるように、社会意識も倫理もまた間主観的に構築されなければならない。そのとき、人間の歴史は初めて「自己を通して他者を知り、他者を通して自己を知る」という真の理性共存の段階に達すると考えられる。そしてその意識を反映して社会構造も変化していくと考えられる。

6、社会変動論への展開

 社会の変動とは、共存性と個人性の均衡が崩れ、新たな均衡を求めて再編成される過程である。人間社会は常に、この二つの契機の相互作用によって動的に形成されてきたといえる。したがって、社会変動を理解するとは、単なる経済的・政治的変化を追うことではなく、人間の意識の深層における「共存と個」のダイナミズムを理解し、社会意識の変化を理解することが必要である。

 歴史的に見ると、原始的共同体社会は共存性の優位によって支えられていた。血縁や地縁を基礎とした結合が人々を結びつけ、個人はその中に包摂されていた。しかしそれは、地域性を帯びた限定的なものであった。文明の進展とともに、社会の複雑化が進み、技術と交換経済の発達が人間の個人性を強め、社会は次第に「個」の自立を促した。古代都市国家の成立、そして近代市民社会の誕生は、この流れを加速させ、啓蒙思想の発現はそれを理論的に支えた。

 しかし、個人性の拡大は同時に生得的な共存性の喪失をもたらした。近代社会は自由と平等を理念としながらも、孤立と競争を激化させ、共同体的連帯を失った。ここにおいて社会は再び均衡を失い、新たな共存の原理を模索し始めた。一時は共産主義や権威主義という誤った擬似共同体を志向した。現代はなお、その模索の延長線上にある。すなわち、個の自立を前提とし、人類全体の共存性の実体化を条件とした「自覚的共存」が求められている。

 この転換は、単なる制度改革や政治運動によって達成されるものではない。それは人間の意識の深化、すなわち「他者存在の中に自己の存在理由を見出す」思考の成立によってのみ実現される。この点において社会変動は、「意識の覚醒」を要因として達成されるはずである。

 現代社会の危機――孤立化、情報断絶、倫理の喪失――は、個人性が極限まで肥大化した結果である。この状況を克服するためには、共存性の再構築が不可欠である。ただしそれは、かつての地域的共存や擬似共同体への回帰ではなく、個人の自立と他者との共存が地球規模で自覚化された新たな社会形態への移行でなければならない。

 したがって、社会変動論は、単なる社会構造の変化の記述ではなく、人間の意識の変化と関係づけて再構築されなければならない。社会構造の変化は外的なものではなく、個人性と共存性の緊張の中でつねに変化する人間の社会意識との相互作用の中にあるからである。

7、未来社会の構図 ― 共存性と個人性の統合

 未来社会の方向性は、共存性と個人性の弁証法的統合にあると考える。人類史は近代化以降、共存性と個人性のバランスの移動を繰り返してきた。だが21世紀の転換期において、そのバランスは破綻に向かっている。情報技術とグローバル経済は個人の自由と創造性を極度に拡大したが、その反面で、人間紐帯の断絶と社会的孤立を深めた。いま求められているのは、個人の自立を前提とした新しい共存の形である。

 この未来社会における共存は、もはや外的な同調圧力や制度的拘束によるものではない。それは、個々の人間が自己の内に他者への理解と共感の構造を自覚的に形成することによって支えられる、意識の覚醒による「自己を通した共存」であるはずである。すなわち、他者を自己の延長として感じとる能力――これこそが未来の倫理的理性の中核となる。ここで言う共存は、意識の覚醒を前提とする「意識的共存(Conscious coexistence)」である。

 一方で、未来社会における個人性は、孤立した自己主張ではなく、他者との関係を通して自己を形成する「関係的個人性(Relational individuality)」へと進化するはずである。人間の自由は、他者を排除することによってではなく、他者と共に世界を創造することによって実現される。「関係的個人性」とは、共存性の深化と共に現れるのである。

 この二つの原理が統合されるとき、社会は「多様性の中の共存」を基本構造とする新たな秩序に到達するはずである。そこでは、経済活動も政治制度も、競争原理から共創原理へと転換する。教育は単なる知識の伝達ではなく、共感的理解の形成を目的とし、文化は個の表現と社会的連帯の両面を担うようになる。すなわち、未来社会は「共存性を基盤とした個人社会」であり、個人の自立と社会的統合が同一の過程として成立する社会である。

 このような社会では、倫理・政治・経済・文化がそれぞれ独立に機能しながらも、根底で「人間の共存的理性」によって基礎付けされる。社会秩序は外的強制ではなく、内的合意と相互理解によって維持される。ここにおいて初めて、人間の理性は「他者の自由を自己の自由として承認する段階に達する。

 実はこのことは啓蒙思想の初期から理念的に言われてきたが、なかなか実体化しなかった課題でもある。

 未来社会の構図とは、共存性と個人性の対立が止揚され、両者が一体的に発展する「共創的人間社会」(Co-creative human society)の形成である。そこでは、個人の独創性が社会を進化させ、社会の成熟が個人を深化させるという構造が実現する。この構造が確立されるとき、人類は初めて「共存する個的理性の文明」を実現するであろう。  (2025/12/01)

 

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