マルクス理論の魅力と限界
初期マルクスと後期マルクスに分けて、その理論の問題点を指摘してきた。
しかし、「共産党宣言」の発表以降、世界に与えたマルクスの理論の影響は計り知れないほど大きい。なぜか?その魅力の源泉を探り、その限界を考えてみたい。
初期マルクスの一番の特徴は、やはりその疎外論であり物象化論であろう。では、人間から疎外されていて、共産主義の実現によって再び人間の手に取り戻さなければならないとマルクスが想定したものは何か?それは、人間の「類的本質」と言われる。「類的存在」ともいう。
これは何を示しているのか?マルクス以降の多くの学者によって議論された事柄である。マルクスは、その哲学的淵源をヘーゲルに依存している。そうであるならば、これは、カントの「物自体」という認識論のアポリアを解決しようとしてヘーゲルが提示した「主体・客体の弁証法」において、それぞれの「個我」が弁証法的止揚によって到達する「絶対精神」のマルクス的な解釈と考えて良い。すなわち、人間に共通して存在する本性である。
これを別の形で言い表してみれば、仏教の臨済録に次の言葉がある。
「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。」
ここでいう「一無位の真人」とは、「仏性」のことであり、仏教では、それはすべての人々の心の奥底に潜んでいるが、自覚する人は少ない。これを自覚した人を「仏」と呼び、自覚することを「解脱」とか「悟りを開く」という。
マザーテレサの「死を待つ人々の家」では、死に行く人に寄り添い。その孤独を癒す限りない優しさを持って接する。この無私の優しさ、無限の愛こそが、仏性であり、人間の本質ではないのか?
映画「Happy」では、ウォール街で巨額の報酬を得ていた青年が、それを捨てて、「死を待つ人々の家」で働くようになり、「今が一番幸せです」と微笑むシーンがある。人間を幸せに導くものは、お金や贅沢品ではなく、人と人との絆であり、相互の信頼感や愛情であると映画は主張する。
この、互いに信頼感で結ばれ、ともに支え合って生きていく関係を「共存性」と呼ぶこととする。この「共存性」は、具体的でもあり、理念的でもある。
仏教では、単に人間相互だけでなく、自然を含めてすべての「共存性」を認め、これを認識することを「悟り」という。これは理念的な「共存性」といえる。
キリスト教では、自然を含めることはないが、人間に無限の愛、「アガペー」を持つことを説く。これは人間は互いを愛し、互いに寄り添い、思い遣る存在であるべきということと同じである。これこそが「共存性」の主張ではないのか?。これは具体的であり、理念的でもある「共存性」である。
マルクスは、宗教を非論理的なものとして忌み嫌ったが、マルクスの魅力は、「個我」を超えた人間の「共存性」を「類的本質」として理論的に主張したことにあるのではないか。これは理念的な「共存性」である。
そして、それこそが、時代を超えて人々を魅了して止まないマルクス理論の核ではないだろうか。
では、人間の「共存性」は、いつの時代に人間に備わったのか?ここからは、社会学の領域となる。
それは、テンニースの言うゲマインシャフトの世界で身に付けられたものだ。それは、ホモサピエンスが生まれ、人々が家族やムラといった自然共同体で生活することの中で培われたと考えて良い。前近代の長い時代のなかで人間に備わった性質である。これは具体的な「共存性」である。
そして、それがあるからこそ、人々は家族やムラの中で互いを思いやり、助け合いながら生活の安定を保った。そして仲間を守るために戦争を行い、殺し合いをした。つまり、当時の人々が身につけた「共存性」は狭く体験的な仲間の範囲で成立する感覚であって、すべての人間とか、すべての人間と自然といった理念的なものではなく、ごく狭い範囲の具体的なものであった。
仏教やキリスト教やその他多くの宗教は、程度の差はあれ、この「共存性」を理念化し、教えとして説いている。したがって、どの宗教も親しい集団内の倫理については、愛情や信頼による結びつきを主張し、互いの個我による対立や闘争を否定する。
念の為に付言すれば、特に一神教においては異端は罪であり、排除の対象となった。また、近代化の成熟とともに成立したいわゆる新新宗教では、対象が個人となるので、家族の倫理は無視される。いずれにしても、個人化が進んだ近代社会の中では、宗教の世俗化が進み、その影響力は減ってしまった。
人類は、この「共存性」によって内部的には闘争をせず、信頼感によって結ばれた自然共同体である集団を、少しずつ大きくすることによって、より多くの人々の集団の社会的安定(Solidarity)を得ようとした。それは戦争に勝利するためにそれぞれの国家の規模を大きくしていくという結果につながった。
もちろん、近代以前の大国家は、自然共同体の倫理のみでは維持できない。そこで、近代化以前の大国家では宗教や思想や法律の規制力も利用された。
同時に、生活の安定のために生産力を上げることが模索され、それは産業革命以降の近代化を誘発し、個人意識を生み出し、機能集団や集列集団に満ちた社会を作り出した。
個人意識の高まりは、啓蒙思想となり、民主主義が生まれ、個人を基礎とした社会契約によって社会をまとめていく思想が生まれた。そこで、究極的に国民国家が誕生した。
一方では、近代化によって生まれた「個人」と「個我意識」の成熟により、近代化の過程の中で、前近代の自然共同体で培われた具体的な「共存性」が失われてしまった。
そこでマルクスは人類に抽象的で普遍的な本質として「共存性」を「類的本質」として理論的に提示し、人々の喝采を受けた。これがマルクス理論の魅力の一つである。マルクス主義が一つの宗教であると揶揄される所以もここにある。
共産主義の政治システムは、この「共存性」を国家規模で国民に自覚させようとして、共産主義の理想を示すとともに前近代的な倫理教育に力を入れた。家族の絆や友情の大切さを教え、国家への忠誠を説いた。すなわち擬似共同体を作ったのである。
擬似共同体の国家は不断に全体主義の国家に転化していくことは、自著「近代化と人間社会」で説明した。真に必要で有益だったのは、小さな意志共同体を無数に社会の中に作りながら、近代的個人を大切にしていく国家であるが、それには考えが及ばなかった。これが、マルクス理論に基づく国家システムの限界であった。
それに対して、近代化を進めた西側先進国では、近代的な諸個人を大切にする文化が花開き、それに呼応する政治経済システムが形成され、社会は豊かに、そして自由になったが、近代化の過程で失われた「共存性」を復活するシステムが作られることはなかった。
西側では、伝統や保守を自認する人々が、家族意識や国家意識を強調して家族倫理を国民に強制する権威主義の社会システムを作ろうとする動きもあったが、それらは反近代のうねりとして近代化の波の中に沈んだ。
理念化された共存性は、公共と名を替えて社会の必須項目とされ、公共を冠とする社会諸科学が研究されたが、まだまだ根付いていない。
この「共存性」については、グローバル化が進み、世界の経済力が高まり、人々の生活にゆとりが生まれた後に、再び注目される日が来るように思われる。
グローバル化の行き着く先がどのような社会になろうと、個々人が小さな意志共同体を通して「共存性」を体得することが、理想的な社会を作るためには必須であると考えられる。
人類全てという大集団を平和に安定的に維持するためには、個々人の自由を互いに認め合うための社会制度の整備が必要であり、それは個人性の確保につながる。一方では、互いに愛情と信頼で結び合うことが必要であり、これは意志共同体という小集団の中で体験的に会得しなけらばならない。このようにして、個々の人間が個人性と共存性を併せ持つときこそ、世界に平和な社会が訪れると予想する。
次にもう一つのマルクス理論の魅力を考えてみる。それは、労働者の救済である。確かに、マルクスが生きた産業革命初期には、労働者の人権や権利を保障する法律や制度の整備はなく、労働者は悲惨な状況にあった。彼らは、マルクスの理論を知り、自分たちが主役となる社会を夢見て、労働運動や革命運動をはじめた。これがマルクス理論のもう一つの魅力であった。
しかし、社会主義革命の結果生まれた国家は、労働者の意に反して、共産党員の人々が利権を貪り、国民を計画経済の枠の中に縛りつけ、行動の自由を制限するという、権威主義、あるいは全体主義の国家であった。そこでは民主主義は形骸化し、立憲主義は拒否された。これが限界である。
しかし、もちろん、この事実は、労働者の人権を主張し、その権利を拡大しようとする社会運動を無意味とするものではない。自由主義社会に最も大切なことは、その成員の機会における平等を保障することである。すべての人間は、平等に教育を受ける機会を持たなければならない。すべての人間は、市場の契約において、平等の立場で参入することを保証されなければならない。すべての労働者は、労働契約において雇用者と対等の立場で交渉できる必要がある。しかし、一般に近代化の過程で創出される労働者の数は時とともに拡大するので、雇用者にとって供給過多の状況を作り、労働契約における労働者の立場は不利となる。そこで、労働法により、雇用条件等を労働者に有利な形となるように保証することが必要とされた。このようにして、西側の民主主義先進国では、労働者の権利が確保されるようになった。
しかし、近代化の成熟は、少子高齢化の社会を生み、労働者の不足を生んだ。そこで、グローバル化の始まった頃から、労働者の確保のために、非正規雇用の創出等、労働者に不利な状況が生み出され、プレカリアートが生まれた、
この問題の解決のためには、労働運動の活性化を図るとともに、労働者不足の解決策として多産多死の発展途上国から適宜能力を持った移民を受け入れることに尽きる。そしてそれを社会の軋轢なく行なった国が繁栄することとなる。
しかし、激動するグローバル化の中で、一定の経済成長を遂げた発展途上国のプレゼンスが増大し、それは各地域での国家対立をうみ、それが反グローバルのうねりとなり、その中で多くの難民が発生し、そういった人々を受け入れた先進国では、移民拒否のポピュリズムが生まれ、反グローバルのうねりがますます増加する。現状はこんなところか。
この問題を解決する道はある。まず問題を整理することだ。移民と難民を区別し、それぞれへの対応をきめ細かく分けていく。移民は労働者確保のためであるのでその能力を開発し移民先の国民として権利義務を明確化し、定住してもらう。難民は保護し彼等の人権を守るということを優先する。そうすれば、移民難民を拒否するポピュリズムも収まっていく。
マルクス理論に依拠して社会主義革命を目指して行われてきた労働運動も、新しい視点で、労働者の立場と権利を明確化する方向で行うようにする。現実に民主主義先進国では、革命を目指すような労働運動は下火になっている。
そして最後は適切な税制の整備だ。どんな富裕層も会社法人も、社会的な弱者を救済するための一定の課税を甘受しなければならない。それが民主主義だ。しかし、共同富裕などのスローガンで無理やり富裕層から多額の徴税を行えば、それは個々人の競争意識を弱め、生産力の発展を阻害する。したがって、社会的公平を模索するとともに経済成長を阻害しないバランスが大切となる。そのための学問が公共経済学であるが、まだまだ発展途上にあるように思われる。(2024/11/03)