スサノオと牛頭天王

スサノオと牛頭天王

 平成13年(2001年)秋、当時の住吉大社宮司真弓常忠先生のご指導にて、韓国牛頭山をはじめとする素戔嗚尊ゆかりの地を訪ねた。これは、その感想をもとにしたレポートである。

1、素戔嗚尊の出自
 素戔嗚尊は如何なる神か? 一般的に言えば、素戔嗚尊は、古事記に言う伊邪奈岐、伊邪奈美の国生みと共に生まれた神々の最後の三貴神の一人、天照大神の弟神であり、海原を支配する神である。そして、粗暴の故に高天原を追放された後は、出雲にて八股大蛇(河川の氾濫説が主流)を退治し、国土開発神として活躍し、ついには死後の世界である根の国へ至る。養子に大国主命を迎え、大国主命は国造りを行い、皇孫ニニギ命にその国を譲り、出雲へ祀られ、根の国を支配することになるので、いわゆる国津神の主神である。これは、素戔嗚尊は、一方では高天原の主神の一人であり、他方では、天孫降臨以前に日本列島を支配した国津神の根本神であることを示している。素戔嗚尊の二重性はここに露見する。
 
2、牛頭天王の出自  
 牛頭天王の信仰は、インド、中国、朝鮮、日本に拡がっている。祇園精舎の守護神としての牛頭天王は、仏教に吸収されていくが、本来は、インドの土着信仰の中から生まれた、災厄除去の神である。その邪悪性が根本的で巨大であるが故にこれを祀ることによって、もろもろの災いを祓い避けようとするものである。この信仰は、その病避けの信仰から薬師信仰と結び付き、中国での神農信仰となったと考えられる。病災避けの守護神としての牛頭天王信仰は、朝鮮で広く受け入れられると共に、中国、朝鮮各地より長年月にわたって多くの諸部族が日本列島へ移住するに際し、あるいは牛頭天王信仰として、あるいは神農信仰として渡来したと考えて良い。では、素戔嗚尊と牛頭天王の習合はどこで生起したか?
 
3、素戔嗚尊と牛頭天王の習合
 素戔嗚尊信仰は出雲を中核として、紀伊半島、大阪湾、尾張、瀬戸内海、隠岐、北九州に広く分布している。また、その息子である五十猛命信仰は紀伊を中心として、同様に広く分布している。出雲神話における素戔嗚尊は国土開拓神という性格を持っていて、これが、素戔嗚尊信仰を広く分布させた主要因であると松前健は言う。そして松前は、紀伊須佐のあたりに住んだ海人族の信仰を素戔嗚尊の原点と見る。彼等が海人族として、朝鮮半島にも交易し、曾尸茂梨の地における降誕神話を作ったとする。朝鮮半島の曾尸茂梨の地は、朝鮮の人々にとっては、素戔嗚尊でなく、牛頭天王の降誕地であるから、牛頭天王の素戔嗚尊への習合は、日本から出かけた人々によってつくられたものであると見る方が理解しやすい。狛の地の人々が紀氏の祖先であり、素戔嗚尊信仰を朝鮮から持ってきたのではないかという説もあるが、その場合は、牛頭天王を持ってくるであろう。従って、国土開拓神としての素戔嗚尊信仰がもともと海人族系の人々によって日本に現存しており、そこへ牛頭天王信仰が重なったと考えた方が解りやすい。もう一つ奥を考えれば、もともと先住の海人族の海洋渡来神信仰として素戔嗚尊信仰が紀伊に在り、そこへ朝鮮より渡来した氏族である紀氏が土着の海人族と合体し、素戔嗚尊信仰を受け入れ、彼等の持っていた牛頭天王信仰と習合させ、素戔嗚の故地が曾尸茂梨であるとしたのかも知れない。いずれにしてもこの二神の習合により、素戔嗚尊の日本神話での性格が形成されたのであろう。高天原神話での粗暴神としての素戔嗚尊は、邪悪神であり除災神である牛頭天王の神の性格が遷されたものである。
 
4、曾尸茂梨の二重性 
 曾尸茂梨は一方では、牛頭天王の降誕地である。朝鮮の各所に曾尸茂梨ありとする説があることは、朝鮮において、神農=牛頭天王信仰が広範に受け入れられたことを意味している。
 一方、神を山の頂から迎える神聖地を意味する曾尸茂梨は、朝鮮において、神は天から、あるいは天に近い神聖な山から降臨するという垂直的世界観に基づく神観を示している。これは、吉田敦彦の説によれば、大陸系民族の神話にみられる構造であり、日本の高天原神話もこの系統に属する。日本でも、ヤマト大物主は三輪山を住処としており、その他にも神体山の多いことは、大陸系の人々が多く移り住んだことを示している。一方海幸彦山幸彦神話や紀伊の補陀洛信仰は海人族系の人々の、神は海上遥かからやってくるという水平的世界観に基づく神観であり、これが初期の日本の人々の神観であったと思われる。
 人類学的な研究によれば、アイヌ系の人々と沖縄系の人々のDNAは一致しており、共に縄文人の子孫であると考えられる。この人々は、東南アジアあたりから海流に乗ってやってきた海人族であり、且つ、山へ入っては狩猟を生業とするマタギ、あるいは木地師を生業とするサンカの先祖となったと考えられる。但しアイヌについては、ルーツを同じくする縄文人であっても、カムチャッカあたりの北の道を通って渡来した人々である可能性が高い。アイヌ神話の天から神が降り、また魂は天に帰るという垂直的世界観がそれを示している。
 これに対し、弥生系の人々は大陸各地より幾時代にも渡って日本へ移住し、ついには大和朝廷として日本を統合し、支配したと考えられる。初期の揚子江下流域あたりからやってきた人々は農耕民の中核を形成し、後期に主に北魏や朝鮮半島からやってきた人々は馬と鉄を日本にもたらした人々であり、ヤマト王権を確立したと考えられる。諸部族の支配統合の過程は、主に通婚による吸収従属であり、そのため民族混交が起こり、大和朝廷は多くの民族の神話を習合し、記紀神話を作成しなければならなかったのである。古事記が日本書記より新しいのではないかという説は、古事記の神話習合の完全性に所以する。
 
5、結論
 素戔嗚尊と牛頭天王の祭神としての性格を探り、また、その出自と習合の過程を検証することにより、日本民族の生成過程に遡ることが可能である。また、これを手がかりとして、古事記、日本書紀に代表される日本神話を分析し、その習合形成の過程を探り、それぞれの神を信仰していた民族の出自を解明することも可能となる。すなわち、日本の古代史研究に欠かすことの出来ない分野である。
(2004/02/14作成 2025/03/19公開)

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