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認識論のアポリア

認識論のアポリア

 デカルトが「Je pense, donc je suis」と喝破した時、近代的自我の確立が始まった。主観が認識して得たものと実体との関係が哲学の永遠の課題となった瞬間でもあった。 

 カントの批判哲学の中で、最大の問題は、個別の主観が生み出す認識の客観性、つまり「人々が五感で認識した結果が同じ内容として共有されるのはなぜか」という点をどのように証明するかということであった。カントは、「物自体(Ding an sich)」という概念を創出し、それを認識の客観性の限界とすることで、問題を回避した。これがいわゆる認識論のアポリアである。

 ヘーゲルは、弁証法という論理学を作り上げ、時間的構造を論理に内在させることによって、その解決を図ろうと試みた。すなわち、主観と認識対象との相互作用を通じて認識が発展し豊かになると考えたのである。しかし、これは主観が認識作用の自己展開を通じて絶対精神に至るという観念論を作り、認識のダイナミズムと社会性を示したが、認識論のアポリアの根本的な解決には至らなかった。合理論と経験論の断絶は依然として残ったのである。ドイツ観念論の主観主義哲学は後に一方では虚無主義やニヒリズムとなり、他方では価値哲学へと展開し、歴史修正主義の思想的土壌を生み出すこととなった。

 この認識論のアポリアは、後に論理実証主義の成立によって、言語の論理構造の共通性という観点から、外形的には証明されたように見えた。しかし、それは人間の認識の豊富化と意識の実態を説明することはできなかった。

 この問題は、現象学による「間主観性(Intersubjektivität)」の発見によって、ようやく理論的に解決の道が開かれた。さらに発達心理学の精緻な分析の結果、弁証法的な認識発達の過程が実証的に明らかにされ、人間の認識の社会的・時間的構造が具体的に説明されるようになったのである。

 間主観性の発見は、認識が単なる個人の内的作用ではなく、人間相互の関係の中で成立するという事実を明らかにした。すなわち、他者の存在を前提として、初めて自己の認識が確立するということである。このことは、認識の主体が「孤立した個人」ではなく、「共に社会を作る存在」としての人間であることを示している。

 ここで、人間の本質的性格としての「共存性」が明確になる。人間は、他者との関係性を通してしか自己を確立することができない存在である。言い換えれば、人間の意識は常に他者との相互作用の中で生成される。人間の共存性とは、このような相互作用的な存在構造を指すものであるといえよう。(2025/11/05)

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