日本の更なる経済成長は可能か
このテーマで議論することは、あまり意味がないことのように思われる。しかし、巷では、相変わらずこの手の議論が喧しい。「失われた三十年はどうして生まれたのか」とか「欧米諸国に比べ日本の株価はどうして低いままなのか」とか、「日本はもう先進国ではなくなったのか」とかである。
経済成長とは、基本的に発展途上国が先進国にキャッチアップしようとする時に起きるものだ。それは、1多産少死社会で、2生活財が不足している社会、3社会資本が国家の手によって整備されだした、4前近代から近代化を志向する社会の中で起きる。
日本に例をとって説明すると、戦後の日本は、前近代社会を色濃く残した多産社会から始まった。団塊の世代と呼ばれる厚みのある世代は、田舎から都会へ出て、労働者となって輸出商品の生産に励み、得た給料で生活の近代化を図り、住宅をはじめとする様々な生活財を購入し、都市を発展させた。そこでは低賃金労働と技術革新による輸出財が豊富に生産され、また生活を近代化し便利にするために内需が劇的に拡大し、大きな経済成長を遂げたのである。そして冷戦の終了する頃、先進国となった。すでに先進国となっていた欧米。特に米国は新しい技術開発に挑み、軍事に投入していた技術者、研究者を民間に回し、IT技術を核とするデジタル社会を実現した。日本はここで決定的に遅れをとった。
アナログ社会では、時代を席巻したテープレコーダーやカメラや自動車エンジン、家電製品が日本製であった。しかしデジタル社会では、そういった世界に通用する製品が生まれなかった。デジタル時代に即応できなかったのは何故か?それは、半導体の開発や巨大コンピューターで先頭を走っていたにもかかわらず、パソコンソフトの開発で遅れをとり、米国主導の技術を導入することとなったからである。少なくとも、OSでマイクロソフトやアップルを凌ぐ技術が開発され、それが世界で採用されていれば、現在のようなことはなかったであろう。
次に、商財の生産拠点を発展途上国へ移管し、その収益のみを本社に吸い上げる方法をとったことである。一時は海外の労働賃金が安い国々から労働力を移入し、生産を国内で続けることも画策され、それは今も一部の業界で続いているが、移民を嫌う国民性もあり、先行きは暗い。
このように見てくると、現在の日本ではこれ以上の経済成長を望むことは難しい。しかし現状の国民生活を見ればそれは先進国のものである。住宅の供給は100%であり、地方や初期の団地には多くの空き家ができている。生活財も各家庭に豊に存在し、自動車も一人一台という家庭が多い。最近の若い世代は、逆に生活財の豊かさよりも趣味やSNSの繋がりに生きがいを求め、職業や職場にこだわりが無い。少産多死の高齢化社会となり、介護が大きな課題となってきた。まさしく成熟社会である。
これ以上の経済成長をあえて望むのであれば、移民、特に若者の移民を大量に受け入れ、生活の向上意欲に溢れた人々を大量に作り出し、労働力の供給過多の社会とすることだ。そうすれば原理的に発展途上国と同様の経済成長が一時的に起きるであろう。
それは社会の不安定化をもたらすので嫌だというのならば、残された道は、デジタル社会の先をいく技術開発を成功させ、世界をリードすることだ。かつてのビデオ時代に、日本企画が世界標準となったように、日本発の企画商財が世界に氾濫するようになれば、日本の新技術による経済成長が現実化するであろう。
最も、これから伸びるのはサービス貿易であろうから、サービスを提供する国家として世界の先頭に立つことも悪くない。それには、観光業などを発展させ、海外の観光客の受け入れを図るとともに、デジタル社会のニーズにあった新しいデジタルサービスの世界企画を立案することだ。しかし、これも米國に先を越されているので、AIを超える新しい発想の企画力が問われる。
ともかく、日本は成熟した資本国家として安定しているので、政府もジタバタしない方が良い。世界経済の行末をよく見定めて、世界の人々が共に豊に平和に暮らす社会を作ることに努力を傾注して欲しい。(2025/05/12)