後期マルクスの誤謬
後期マルクスの著作は専ら経済学理論によって、資本主義の根本的な矛盾を説明し、社会主義革命が必要であることを説いたものである。
しかし、残念ながら、その土台となった古典経済学そのものが、根本的な誤りを内包していた。労働価値説である。労働価値説とは、商品の価値は、それに投下された労働量によって決まるという理論である。
マルクスは、商品価値がその商品に投下された労働量によることを前提として、かの有名な剰余価値理論を導いた。
つまり、労働者が賃労働によって商品に投下した労働量に比例して商品の価値が決まるはずであるが、資本家は原価部分を引いた残りの商品(労働)価値の一部分を剰余価値として搾取し、残った商品(労働)価値の部分を労働賃金として労働者に支払う。つまり資本家は目に見えないところで労働者を搾取する、という論理である。
これは地主と小作人、網元と漁師の関係にも当てはめることができる。故にこのような理不尽な生産関係を解消し、資本家のいない働く人々だけで構成される社会を作らなければならないと説いたのである。
未だこの学説を支持して、研究に余念のないマルクス経済学者という人々がいる。まさに迷妄の学問である。
まず価格形成のメカニズムは、新古典派経済学の父とも言うべきマーシャルの限界効用理論により、労働価値説は否定され、個々人の需要と商品の供給のバランスにより価格が決まることが現代経済学の常識である。いわゆる一般均衡理論のパレート最適であり、現在では、さらに精緻な研究が進み、ミクロ経済分析として、個々人の肉体や精神の状態の有り様が商品の取引に影響するというところまで研究されている。まさに個人化した人々の経済行為が研究対象なのだ。
労働価値説を否定する例としてはシーシュポスの神話がよく取り上げられるが、ここでは、分かりやすく、大谷翔平の本塁打の記念球の価値を考えてみる。ボールがバットに弾かれて本塁打になったので、ボールに投下された労働量は打つということだけだ。同じ打つという行為で本塁打になったボールは毎日メジャーでも日本プロ野球でも量産されているが、大谷の記念球の価値には到底及ばない。よって投下された労働量と価値とは無関係である。
もう一つ、商品の価値がそれに投下された労働量で決まるならば、大規模な設備投資を行い人手を省く製造業よりも、サービス業など人手を要する産業のほうが利益率は高くなる。しかし実際にはそのようなことはなく、長期ではあらゆる産業の利益率は均一化に向かう。ある産業の利益率が他より高ければ、その産業に参入する人々が増え、激化した価格競争が利益率を低下させるからだ。
マルクス自身、『資本論』第1巻でこの矛盾を認め、あとの巻で解決を示すと約束した。
しかし、結局第3巻に至ってもこの解決はなされないままであった。
このことが示しているのは、資本家が労働者を搾取すると言う剰余価値理論そのものが間違っていたということだ。資本家が労働者を搾取するということが間違いならば、生産手段を労働者の共有とすることによる自由で平等な社会の建設ということは絵空事となる。実際に現出したのは、共産党という特権階級が国民を支配し、平等の名の下に人々の競争意欲を失わせる抑圧的な国家であった。
しかし、初期の資本主義社会において、労働者の使い捨てや虐待とも言うべき現実があったのは事実だ。これに不満を持った労働者達が、マルクスの理論を拠り所として、労働者の人権を主張する労働運動を激化させ、資本主義社会に様々な労働者保護の法律やシステムを作らせることができたことは、現実的な成果であった。
つまり、初期資本主義社会の市場での経済行為において、労働者と資本家は同じ立場で向かい合っていなかったので、問題が生じたのだ。
民主主義でも、市場経済でも、その基本は、諸個人が自由に平等な立場で、参加することが重要なのだ。
民主主義は普通選挙が成立するまで、政治に参加する人々の立場の平等は確立されなかった。同様に、労働者の人権と選択の自由が保証されなければ、労働市場における参加者の立場の平等はない。もちろん、どちらも、それだけでは完全ではない。不断に、参加における自由と平等が追求されることにより、より良いものに作り改められていく。修正された資本主義社会はそのように方向付けされた。
労働市場は、雇用者に対する厳しい規制と労働者や社会的弱者の人権を守るための法律に覆われた。しかし、昨今の新自由主義経済政策はそれらの規制を外して、強く競争の自由を確保しようとする。そこで生まれたプレカリアートを救済するシステムを作らなければならないのが現今の課題である。
一方、資本家による労働者の搾取を前提とし、これを革命によって打ち崩し、農民や労働者階級のみで構成される理想国家を作ろうとする唯物史観の妄信によって、間違った権威主義の国家が20世紀に多数成立し、その中で膨大な人々が、虐殺や抑圧に遭ったのは、歴史的な悲劇であった。(2024/09/07)