人間の共存性と個人性について(改訂)
人間は社会的動物であると言われる。これは人間は本来、家族やムラといった集団で助け合って暮らすということである。この性質を共存性(Coexistency)と呼ぶこととする。また、個人として自由に生きていきたいと望む性質も有している。これを個人性(Individuality)と呼ぶこととする。
この共存性と個人性のバランスの有り様で人間の社会意識が変化する。
人間がその社会意識に基づき、求める方向に社会を変革しようと主体的に社会に働きかけるとき、社会構造は変化する。例えば、啓蒙思想に基づき、民主主義社会を実現しようと市民革命を起こせば、社会構造が変化する。共産主義を理想として革命を起こせば、劇的に社会は変化する。世界的に生産力を高めようと技術を磨き、経済交流を促進し、互いの結びつきを深めれば、社会は必然的にグローバル化していく。
社会構造が変化すれば、それは人間の社会意識に変化をもたらし、共存性と個人性の意識のバランスが変わる。そして社会をさらに変化させようとする。
このようにして社会の構造が変わっていく。私なりの社会変動論である。
社会意識と社会構造は互いに影響し合って社会を変化させていく、つまり歴史を作るのである。この場合、どちらが先かと問うことは無意味である。
そこで、社会意識の中でも特に共存性と個人性のバランスの歴史的な変化を通じて、人類史、社会構造の変化を見てみよう。
さて、「共存性」には、生得的なものと理念的なものがある。生得的なものとは、基礎(自然)共同体である家族やムラという集団の中で体験的に会得された。それは、成員が互いに信頼と愛情をもって結びつき、その集団を守るという性質である。
生得的な「共存性」は、猿人の時代から前近代、すなわち数百万年という長い年月のなかで人類が身に付けた性質であって、それはもちろん現代にも生きている。卑近な例では、テレビドラマなどで犯罪の理由として家族のための殺人とか復讐とかがよく採用されるのは、それが人々の感情に受け入れられ易いということである。これは、家族という「共存性」が人々に感情移入をさせるほど普遍的であることを示している。
一方、全人類を対象とする理念的な「共存性」については、前近代においても、宗教や思想の理念として提示されることはあったが、なかなか受け入れられることは難しかった。人間は、身近で具体的に「共存」する仲間のために、他の人間集団と戦争をして、互いに殺し合ってきたからである。互いに殺し合っている内は、人類全体といった大きな範囲で共存性を具体化することはできない。ただ、理念的なものとして示されることはできた。
この理念的な「共存性」は、近代に至って、注目を浴びる事となる。それは、理念としての「近代的自我」が確立し、「個人」概念が現実化し、近代的な個人意識が具体的に人間に備わっていく中で、「共存性」との葛藤が生まれ、生得的な「共存性」は圧倒的で急速な近代化の中で失われ、代わって理念としての「共存性」の現実化が求められるようになるからである。
啓蒙思想の中で、理念的な個人意識が語られ、それは近代的自我として確立していった。そこでは、「自然権としての自由」が全ての人々に平等に存在するとされた。そうなると社会の中では「万人の万人に対する戦争」という状態が発生する。これを防止するために、社会を構成する人々は互いに社会契約を結び、自由権の一部を放棄し、戦争状態を防ぐものとされた。ここから、個人を基礎とする民主主義という政治社会構造が理念的に作られた。そして歴史を通じて現実化された。市場経済社会という社会構造も、同様に個人間の自由で平等な経済的取引を基礎として構想され現実化していった。
したがって、啓蒙思想による近代社会理論の中には「共存性」という概念は全く存在しない。個人を主体とした社会契約のみで人々は結びついている。そうなると、近代化された社会では、ムラや家族は解体し、人々は孤独な群衆となり、個人化して、生得的な「共存性」は「近代的自我」と衝突し、悲鳴を上げる事となる。かくして「共存性」を求める反近代のうねりが近代社会の中に生まれてくる。
人々は、理念としての「共存性」の現実化を求め、マルクス理論はその現実的な処方箋としての具体的な社会像を描いて見せたから、共産主義は、あっという間に全世界に広がったのである。生憎その内容に不備があったために、20世紀末までにその歴史的な役割が消滅した。
これらの事情は、過去に共産主義とマルクス理論へのいくつかの批判的な考察の中で説明した。
「近代的自我」は、それぞれの独立した人格を生み出すので、それは個性となる。
近代人の最大の矛盾点は、自己の中で、生得的な「共存性」と理念的な「個人性」がぶつかり合う事である。そして、民主主義と市場経済を基本とする近代社会に生きることにより「個人性」は理念的なものから次第に経験的且つ実体的なものとなっていくので、この矛盾はますます激しく避けられないものとなる。生得的な「共存性」は次第に失われ、孤独で社会紐帯の意識が希薄な個人が氾濫する。つまり「個人性」は経験的になり、「共存性」は理念化していく。
「共存性」を人間の本質と考え、社会を「共存性」によって結びつけようとする政治家は、全体主義の社会を理想として、「個人性」を潰し、成員の全てが共通の目標に向かって進む社会を夢見た。国家社会主義や共産主義の国家はそのようにしてつくられたが、それは規模の大きな共同体を志向するが故に疑似共同体となって、社会の連帯感を形成する際に、国民を「共存性」を理念化したもので縛る以外の方法を持たなかった。具体的には家族道徳であり、社会に対する奉仕であり、国家に対する忠誠であった。しかし、社会が近代化していけば、近代社会特有の「個人性」と衝突し、矛盾を露呈し、滅び去った。残存する権威主義の国家群は、「共存性」と「個人性」をどのように調和すべきか未だに結論を見出していない。
「個人性」と社会契約を主体として構成されている国家は、現在のところ、民主主義の国家群である。そこでは、生得的な「共存性」に基づくカルトのような反社会的な動きが生まれることもあるが、法と警察権力により治安は保たれている。しかし、人々は近代人の矛盾、社会病理に苛まれている。
社会契約のかなりの部分を放棄し「個人性」を野放しにしようとする思想もあるが、今のところそのような国家は存在しない。リバタリアニズムがそうである。
グローバル化が進む今日に至って、地球上に住む全ての人間が協力、協調して対処しなければならない問題が山積するようになった。特に地球温暖化に象徴される環境問題である。全人類が協力して解決を図らざるを得ない問題が発生し、そこで初めて、理念としての「共存性」が現実化した。
前近代の生得的な「共存性」では、全ての人類が共存することはできない。人々は自己の属する集団(国家)のために戦うからである。全ての人間が、個性を持って自立し、その上で、理念としての「共存性」を理解し、それを現実と結び付け、実体化しなければ、全人類の課題の解決や平和はあり得ない。
すなわち、全ての個人が理念的な「共存性」を理解し、それを実体化しようとする明確な意思を持って、新しい世界レベルの社会契約に同意する必要がある。
ここで、過去の人類の歴史を振り返ってみよう。
生得的な共存性の中で生きていた人類にとって何よりの欲求は食料を始めとする生活消費財を豊かに作り出すことであった。農業と牧畜の始まりである第一次産業革命は、人類の個体数を一定程度安定的に維持することを可能とするとともに、貧富の差や身分の差を作り出した。
さらに生産物を豊かに得るために、戦争や略奪を始めた人類は、闘争に明け暮れる中で、徐々に理性的になり、啓蒙思想を生み出し、科学技術を磨き、機械の導入による爆発的な生産力の発展を得た。それは第二次産業革命となって現れ、社会の近代化を導いた。
そして、20世紀末から始まったIT社会はインターネットを利用した情報革命、第3次産業革命を現出し、世界を一つにし、さらなる生産力の世界的な発展を促した。
しかし、世界の流動化と激しい社会の進歩は、人類に大きなストレスを与え、その反動として移民排斥、国家依存主義という反グローバリズムの潮流を産んだ。
一方では、 AIの発明やロボット技術の進歩は、生産の一層の合理化と爆発的な経済成長を予感させている。現在である。
おそらく、生産をより豊かにするための労働者の確保のために、移民や国家の希薄化すなわちグローバル化は、反グローバリズムの動きを乗り越えて、今世紀末には一層の進展を見せるであろう。しかし、次に予想される労働者のロボット化は、労働者そのものの存在を無用のものとするに違いない。
これが、第4次産業革命である。人類は労働から解放されるので、世界的な経済循環を確保するために、富の再分配が制度化され、消費者を作り出すことが議論されるであろう。
労働から解放された多くの人々は、自己実現の暮らしを選択し、自己の社会意識を磨くことに専念することができる。そして、以下に述べるような新しい社会構造が実現しよう。
才能に優れ、経済競争に専念する一部の人々は、経済循環の中で、世界的に消費財を作り、販路を広げ、富を蓄積し、富裕層としての暮らしを満喫することができる。しかし一方、経済循環を作り出さなければ、富を得ることができないので、消費者を作り出すための富の再分配の原資として税を負担せざるを得ない。そしてもちろん経済競争に参加し、富を獲得しようとすることは個人の自由であり、誰もが参加できるが、簡単ではない。それは現在も同じである。
このような仕組みが予想される社会構造であり、そこでは、大部分の人類は、生殖の欲求、物質的な豊かさへの欲求から解放されている。そうなってこそ、初めて人類は地球規模の社会契約に取り組むことができる。
新しい社会契約とは、地球レベルで人類の「共存性」と個々の「個人性」を両立させるための社会契約となるはずである。18世紀、社会契約によって国民国家が誕生したように、21世紀末、もしくは22世紀に地球レベルの社会契約によって地球共同体(世界連邦)が成立するのだ。
しかし、人類はいまだにそのような思想を準備できていない。国際連合があり、多くの国際条約もできてきたが、相変わらず、国家を軸とした駆け引きで自分たちのプレゼンスをあげようと対立と戦争を行っている。
中には、地球温暖化をまやかしという大統領もいる。コロナウイルスは嘘と言って国民を百万人以上死なせ、挙句は自分も罹患した人物だ。自己のビジネスである火星への移住計画を優先し、地球環境を見捨てようとする人物もいる。
個々人の社会意識の覚醒は道半ばである。(2025/10/18)