リベラリズムの将来
2期目のトランプ政権始動以来、その実態や影響について、さまざまな評論が飛び交うようになった。妙に勘ぐった穿ち過ぎの見方をするものが多い中に、その歴史的な位置付けまで考えた真っ当な論説を見つけた。時事.comの吉田徹氏の論説である。「リベラルは“死んだ”のか? 復活への処方箋は…」と題する時評はかなり興味深い。
吉田氏は、トランプのような保守化、右傾化した政治指導者が世界中でもてはやされる時代となり、リベラルの凋落が始まったという。そもそもリベラリズムの価値観は、啓蒙思想に淵源を持ち、個人の自己決定権を重視し、次の5つに価値観が集約されるという。1.政治権力を制約する立憲主義的なリベラリズム、2.自由貿易など、商業の自由を擁護する経済的なリベラリズム、3.社会の基盤に個人を据える個人主義的なリベラリズム、4.社会保障や環境権などを重視する社会的なリベラリズム、5.人種やジェンダーなどマイノリティーの権利擁護を主張する寛容的なリベラリズムの5つである。そして、これは人智や能動的な働き掛けによって、社会変革や状況改善が可能になるという信念や展望に基づく価値観であり、リベラルは進歩的な歴史観を持つものであるという、さらなる特徴が浮かび上がる。という。
つまり、民主主義と資本主義、そしてグローバリズムの根底となっている価値観がリベラリズムであるというのだ。まさしく、真実であり、それは私の依って立つ価値観そのものである。
吉田氏によれば、リベラリズムは個人を基礎とするがゆえに、組織的な動きを必要とする政治運動には弱い。そして、冷戦直後から21世紀にかけてからは、先進国では低成長、気候変動、地域紛争、パンデミック、人口減と高齢化、移民問題など、むしろその未来に課題が山積する時代を迎え、国際意識調査では、先進国のいずれの国民も6割以上が「自分たちの子どもは親の世代ほど豊かにならない」と回答している。事実、子どもたちが親より豊かになる確率は戦後期に9割だったのが、21世紀には5割以下へと減少している。リーマン・ショックとユーロ危機もあって、ミレニアル世代(80年代生まれ)の有する資産は、親の青年期の半分以下と試算される。未来への展望が消え去り、「明日は昨日よりもよくなる」という期待値が失われれば、人智や理性でもって世界や社会を変革していくというリベラル的な価値に対する期待も後退すると考えられる。
反対に、具体的に共有された過去の経験を志向するメッセージは受け入れられやすい。従って、「日本を、取り戻す」(安倍晋三)、「アメリカを再び偉大にする」(トランプ)、「決定する力を取り戻す」(英ブレグジット党)など、過去にさかのぼって、現在に失われたものを回復するという保守的な政治的メッセージの方が人々にアピールするので、現在のような保守反動の政治リーダーが出現するという。
最後に吉田氏は、リベラル的価値は、「生存的価値」に対する「自己表現」、「伝統的価値」に対する「世俗的価値」からなる。そして、世界90カ国で約40万人を対象にした「世界価値観調査」を確認する限り、少なくとも先進国では過去40年間で「自己表現」と「世俗的価値」を一層重んじる人々の数は増加傾向にある。また、近代という時代そのものがリベラル的価値とともにあった。だから、近代化に逆行する意識や思想は「反動」と呼ばれてきた。長期的にはリベラル的価値や意識は死んでないばかりか、これから一層強まるとも考えられよう。と結ぶ。
私は、これらの意見にほとんど異論はない。いくつか付け加えるならば、先進国で将来の富裕化への展望がないのは、先進国の経済発展速度が遅くなったからであって、それは必然的に起きることだ。そして、後進国が先進国に勝るスピードで経済発展を遂げるのがグローバル化であり、先進国が多数多様化していくのであるから、先進国の人々が貧乏になるわけではない。世界的に見れば、極貧の人々はますます少なくなり、中産階級が多くなってきて、先に先進国になった国の人々は、相対的に貧しくなったと感じるだけであって、生活程度が後退するわけではない。それを無理やり、過去のように格差をつけて自国の人々を他国の人々より優位にしようとする試みは、歴史的な反動以外の何者でもない。皆が豊かになろうとするのがリベラリズムの理想であったはずだ。
私が、かねてから主張してきたグローバリズムへの反動が、今、現出していると考えれば、わかりやすい。20世紀前半の近代化への反動同様、いずれは収束し、世界は再びグローバル化に向かって動き出すはずである。
その証拠をいくつかあげよう。保守反動の政治は権威主義の政治となる。歴史的に見て、権威主義の国家から自由主義の国家への脱出を試みた人々は多いが、その逆は極めて少数である。日本から北朝鮮へ帰還した人々はその小数派であるが、一人として幸福になったという事実を知らない。これは、民主主義と自由主義の社会、リベラリズムを基礎とした社会が人間にとって望ましいものである事を示している。
次に、グローバル化によって世界経済の規模は著しく発展してきた。全体の規模が大きくなってきたので、当然、極貧の人々は歴史的に最低となり、今では1割以下である。著しい金持ちも出てきたが、平均的な人々の生活程度は確実に上昇している。吉田氏もいうように、経済的に豊かになりたければ、リベラルでなければならない。もちろん、個人の自由を大切に思うのであれば、リベラルでなければならない。
経済活動の根幹は、需要と供給のバランスである。需要があれば、それを満たすために供給サイドが活性化し、経済が発展する。需要がなくなれば、供給が必要なくなり、経済活動は衰退する。地球全体で見れば、20世紀は人口が一貫して増加したので、人々は豊かな生活を目指して活動し、需要が不足することはなかった。それは今でも継続している。しかし、将来、人口の増加が止まり、社会の高齢化が進めば生活の豊かさを求めるための需要の増加がストップする。あるいは、人々が極端に貧しくなり、購入を控えるようになれば、需要がストップする。当たり前のことだ。22世紀は、需要を作りだす人々にも配慮し、その維持を図らなければならないであろう。
そのためには、一部の金持ちと大多数の貧乏人という図式を作ってはならない。生活弱者への給付や手当を行い、税制と社会福祉の制度によって、貧富の差をある程度縮めなければならない。リベラリズムの思想がここでも必要となる。イーロン・マスクがいくら便利なものを作っても、それを買ってくれる人々がいなければ会社は倒産するのだ。発展的な経済活動を持続し、世界のGDPを増加させるためには、欠かせない配慮である・
最終的には、全世界の人々がリベラルな価値観を共有し、互いを思いやり、自由で豊かな生活を享受できるようになることが望ましい。それがリベラリズムが目指す究極である。人類が、途中で自分自身の手によって破滅することなく、そのようになることを心から願っている。(2025/01/26)