IARFについて
2023年3月24日 投稿者:宮司
以下は、IARFのスーパーバイザーとして、2010年にインド・コーチンへダライ・ラマ猊下をお迎えしてIARF世界大会を開催した2ヶ月後、作成した報告書である。IARFはこの後、残念ながら、私の考えとは異なり、2014年にイギリス・バーミンガムで、2018年に米国ワシントンで世界大会を開催した。なお、私はインド大会終了後、スーパーバイザーを辞した。私の、民主主義と自由についての考えを簡潔に述べているので、ブログに加えることにした。
ダライラマ法王をお迎えして開かれた、インド、コーチンでの第33回 IARF世界大会も盛会の内に終了し、会員の皆様も無事に帰国され、 ほっとされていられる事と存じます。
私は、Supervisorとして、次回、2014年の世界大会 をエルサレムで開催し、さらに、2018年の世界大会を北京で開催する事を、閉会式で、私見として発表させて頂きました。この理由に付いて、説明を行い、会員の皆様のご理解を得るために、これから数回にわたって、私の考えを示していきたいと思います。
民主主義について
民主主義は、人類の到達し得た、現在の段階では、最高の政治システムであるということは、何人も否定できないことです。では、この「民主主義」の本質とは何か? 一言で言って、民主主義とは何か? と問われると、答えは一様ではありません。日本人の多く は、「民主主義とは多数決である」と述べるでしょう。日本人にとって、政治決定に、各人が平等に参加できる事にこそ、民主主義の本質があるように見えるのです。これは、民主主義の憲法が施行される以前の日本においては、政治決定への参加は、身分、財産、性別等によって限定されていた事によります。さらに封建時代に遡れば、日本では、一部の人々によって政治の意思決定がなされることが、ほぼ常識であったのです。
人類社会において、近代以前、政治の意思決定が、一部の人間によって行われており、それが、近代化と民主主義の発展により、すべての構成員に平等化されたのは、普遍的な事実です。
しかし、民主主義の本質はもう少し、異なったところにあるように思います。「民主主義」の本質は、少数者の意見の尊重、というところにあると思います。少数者の意見の存在を知り、それに配慮しながら、多数決の決定を具体化するところに民主主義の政治の本質があります。決して、多数者による少数者の排除ではないのです。
なぜか?
もともと民主主義は、社会契約の思想に基づいています。これは、17世紀から18世紀にかけてイギリス、フランスなどの西欧で成立しました。それによれば、人間は、生来的な自然権として様々な「自由(Freedom)」を持っています。この認識に従えば、人間はそれぞれ自由に振る舞い、社会の治安は保たれる事ができません。すなわち「万人の万人に対するオオカミ」という状況になるのです。これを防ぎ、社会を人間が共存可能な社会にするために、その自然権の一部を政府に譲度し、社会契約を結び、法律を作るのです。従って、基本は、「人間は自由である」という認識になります。ですから、少数者の意見こそ、尊重されるべきなのです。人間は、互いに自由(Freedom)を得るために、互いの自由の一部を制限される事を受け入れ、社会を作ります。こういった社会では、できるだけ、すなわち社会の基本的な秩序を崩さない限り、自由が尊重されなければなりません。それが自由社会(Liberal Society)です。FreedomとLibertyの違いはここに存在します。その自由社会を制度的に保障するシステムこそ民主主義(Democracy)なのです。
IARFは、Religious Freedomを標榜します。世界に、宗教の自由、すなわち少数者の宗教や信仰の自由を実現することが目的の組織です。それは一方では、Liberal Societyの、世界レベルでの実現を目的とするのです。それはまた、民主主義の世界的な普遍化を希求するのです。
(この稿おわり)
自由について
IARFの正式な名称は、International Association for Religious Freedomです。これは、Freedomという概念が、私たちにとって極めて大切な意味を持っている事を示します。
Freedomは、何かからFreeとなる、解放される ことを意味します。人類に取ってその何かとは何でしょう?
当初、人類は、生まれながら、その属する部族、血縁、地縁、親子、兄弟、親族、自然といった環境の中で生まれ育ち、そして死んでいったのです。その信仰は、自然に、あるがままのものとして、生育する環境の中で身につけられたものでありました。自らが、意識して神をイメージして、教学の体系を作り出すのではなく、所与のものとして与えられたのです。
しかし、キリストという革命的な宗教家の出現によって、事情が一変します。彼は、ユダヤ民族に特化されたユダヤ教を、すべての人類のための宗教として開示したのです。すなわち人間は、生来の桎梏から解放され、神のもとに平等であるとされたのです。これが、第一の解放でした。
第二の解放は、宗教改革とルネッサンス、そして近代科学の成立とともにやってきます。長いヨーロッパ中世を通して、すべて神のもとに安定した世界観をもって暮らしていた人類が、それらの変化の時期を通じて、神から解放されたのです。
啓蒙思想における、根源的な自由としての自然権の発想は、まさに、唯一の神のもとに人類が平等であるはずだ、という信念無くしては、生まれてこなかった思想です。
これは、近代科学に付いても同様です。世界は、数学的に合理的に存在しているはずだ、という確信無くしては、近代科学は生まれてこなかったでしょう。そしてそれは、世界が唯一の神の手によって作られているから、合理的な存在である筈だ、という確信が前提にあったのです。
このようにして、キリスト教世界、しかもルネッサンスと宗教改革が起きた世界でのみ、自由の概念と近代科学が成立したのです。それは、今では、世界標準とでも言うべき普遍性を持っています。しかし、その根源を理解しないならば、その真の意味を理解する事はできません。
自由は、意識の中の概念としては、全くFreeです。ですから、思想、信条、良心の自由というときに使われるのは、「Freedom」です。しかし、これが社会行動の自由という意味で使用される時、それは、前回に述べた理由により、制限された自由となり、「Liberty」となります。IARFは、宗教の組織であるが故に、「Religious Freedom」を標榜するのです。
(2010/10/22)