宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

カルトと権威主義

2023年1月6日   投稿者:宮司

統一教会のようなカルトと権威主義政治システムの相似点について述べる。


 一言で言えば指導者の無謬性である。宗教カルトは教祖の指導は絶対であって、これに異論を挟むことはできない。その点こそがカルト、すなわち原理主義の本質であるからだ。

 権威主義もカルトほど絶対ではないが、その組織の成員が指導者への絶対に近い信頼を持つ場合にのみ、民主主義の組織と比べ機能的で無駄のない動きを見せることとなる。権威主義は主に政治システムであるから、宗教カルトほど絶対性を持たない。

 民主主義は、指導者を常に疑うところから出発する。法や規則で権力システムを規定し、指導者やその仲間が腐敗すれば、立ち所に交代させることができる装置がその法規に内在されている。日本国憲法で言えば国民主権に基づく立憲主義と三権分立がそれだ。したがって、民主主義は手続きが煩瑣で面倒である。意思決定に際してはあらゆるチェックを必要とするので、組織を動かす官僚の立場に立てば無駄な制度と見られかねない。もちろんそのように考えることは正しくない。

 いくら組織の指導者が有能であっても、「権力は腐敗する」のであるから、間違うことはある。このように考えて、指導者を取り替えることのできる安全装置を組織に導入し、あらゆる意思決定システムの中にチェック機能を入れることが必要であると考えるのが民主主義である。「指導者は常に間違う可能性がある」と考えるのである。

 見方を変えれば、民主主義では、組織の成員全てが主役であり、その付託を受けて組織を動かすのが指導者とその部下、官僚というわけだ。これに対し、組織を動かすのは指導者と官僚であり、その意のままに組織の成員が動かなければ組織はうまく機能しないと考えるのが権威主義である。

 この違いを明確に理解していれば、カルトが権威主義やその極端化した全体主義と親和性が高いということが理解できるはずである。この両者の共通項は端的に言えば、指導者は間違わない、すなわち「指導者は無謬である」ということだ。それはまた、指導者は基本的に交代しないということを意味する。指導者が長期にわたって交代しない組織は権威主義が疑わしいということだ。

 したがって、無謬のはずの指導者が明らかに間違いを犯したということが、組織の成員全体に理解されれば、その組織は崩壊する。習近平やプーチンや金正恩が、自ら過ちを認めることがないのは、それが組織の崩壊につながるからだ。指導者が過ちを認めないのであるから、組織は過ちを加速させて暴走することとなる。ヒトラーの敗戦はこのようにして起きた。大日本帝国の場合は、帝国憲法が権威主義に基づいていたために、天皇の権威に隠れた指導者層が全体主義の国家を作り、暴走した。

 また、教祖を持つ一神教は基本的にカルトである。そして、異端を認めない。しかし、歴史の中で世俗化すれば、それはカルトから普通の宗教となる。キリスト教も、イスラム教も元来はカルトの性質を持っていた。しかし、近代化とともに世俗化したので、今では、他の宗教に対してもその存在を認め、戒律についても柔軟に対応するようになった。私は、イスラム教のモスクにも、キリスト教の教会にも、ユダヤ教のシナゴーグにも入り、参拝した経験があるが、どの宗教も寛大に受け入れてくれた。礼拝の仕方も強制されることはなく、自分なりの方法で敬意を表すれば良かった。

 このように、最も原理主義的であるはずの宗教すらも世俗化、多様化しているのが現代である。政治がカルト的、すなわち権威主義的で良いはずがない。全ての国々の政治システムが民主主義を採用するようになるであろうことは、人間の性質上からも、容易に想像できるのである。  (2023/01/06)

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