宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

宗教の限界

2022年10月18日   投稿者:宮司

統一教会の問題がマスコミで論じられるとき、「宗教は心の問題であるから、それを批判することは難しい」といった意見を聞く。
これは社会における宗教の役割の変化を理解していない人の意見である。

 かつて人類は、集団の連帯感(Human Solidarity)を作り秩序を得るためにさまざまな装置を作った。それは家族の中での父親の指導、ムラの中での長老の指導といった家父長的な慣習から始まり、祭り等の儀礼を通した集団の結束、巫女の指導といった宗教的な色彩も帯びていった。古代の人々にとっては、世界は得体の知れないものであるが故に、超自然的な神々の力を崇め、それに頼ることも重要であった。そして特定の宗教が成立すれば、宗教共同体の結束力がムラを上回って働いていく。イスラム共同体やキリスト共同体、そしてユダヤ共同体といった強い結びつきはこのような文脈で生まれた。

 そこでは、自分達の宗教を信じない異教徒は秩序を乱す敵であり、彼らを排除し、時には殺害することも許される行為であった。ヨーロッパ中世における魔女狩りやムハンマドのイスラム帝国はこのようにして生まれた。

 しかし、時代は進み、近代社会が到来すると、人々は根源的に自由であり、その権利は平等であるとする自由平等の思想が生まれ、宗教の原理によって人々を差別化し、迫害することは非難されるべきこととなった。その結果、現代では、Human Solidarityは人々の総意によって作られた法律や規則によって保たれるようになった。

 宗教や長幼の序や長老の指導といった過去にHuman Solidarityのために使用された社会関係は、法律等に対し、いわば下位のものとなった。つまり宗教の教えや父親の指導などよりも法律や規則が優先するのである。宗教はもはや神聖なものではなく、世俗化したのだ。

 宗教指導者が法律で禁じられた殺人をその信者に指示した場合、それを履行すれば、殺人罪で逮捕起訴されることとなる。オウム真理教の信者たちはこのようにして処罰された。

 すでに現代では、宗教は心の領域であるから不可侵ということはできない。宗教の布教も、指導も、全て法律で許される範囲の中で許容されるのである。

 統一教会の場合も同様である。したがって、統一教会の布教や指導によって自殺や破産に追い込まれたり、家族が崩壊したりしていれば、統一教会は許されることはできない。私が常に主張するように統一教会(協会)は、もはや宗教ではなく、日本人に対する暴力的な集金装置であり、その資金は文鮮明一族の政治活動に使用されている。1日も早く日本社会から退場させなければならない。(2022/10/18)

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