宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

ナショナリズムとグローバリズム

2021年3月7日   投稿者:宮司

 実は、私は、ある留学生向けの専門学校で、この数年、社会学を講義している。現在はリモートで行なっている。本年2月の学期末はレポートの提出を学生に義務付けた。その課題の一つは、「現代は国家主義(ナショナリズム)と地球主義(グローバリズム)の対立の時代であると言われています。この二つの用語の意味を説明し、その対立はなぜ起きたか? また今後はどうなっていくのかということについて意見を述べてください」というものであった。

 これは、本ブログ中の「国家の時代とグローバル化」の内容を講義したので、それを踏まえて課したものだ。案の定、学生たちのほとんどは、ネット上で回答を探し、そのほとんどはWikあたりの解説を丸写しで提出してきた。もちろん満点は一人もいない。そこで知ったのは、巷では、この二つの概念、ナショナリズムとグローバリズムについて、実に浅薄な見方が常識化しているということだ。そこで、本項では、この二つの概念の本質と歴史的な役割をきちんとまとめておきたい。

 まず、ナショナリズムについて。これは優れて近代固有の概念である。つまり、ナショナルな意識は、「国家は、社会契約による全国民の総意として生まれる」という啓蒙思想が生み出したものだ。決して、民族や文化といった共通項の結果として生まれるものではない。ラテン語の「Natio」は、確かにNationの語源であり、原義は同郷や親族といった同質性の意味を持っており、それにとらわれると、民族や文化的な同質性に基づく国家を国民国家と誤解してしまう。しかし、Wikのナショナリズムの解説の「歴史」部分を読めば理解されるように、国民国家の概念は、ヨーロッパにおいては、フランス革命とナポレオン戦争により理想的な近代国家の形として普及し、また、アメリカ独立宣言において市民革命の究極の理想的な国家として具現化されたのだ。ちなみにイギリスの清教徒革命は、市民革命というより、宗教戦争の色合いが濃い。イギリスの旧体制的な文化の色合いはこんなところが原因であろう。

 アメリカは、国民国家の典型であるが、その国民にはどのような同質性があるのかといえば、当初はWASPを中心とした国家であったが、その後、世界各地より移民を受け入れ、黒人に市民権を認め、実に多様な国民を内包する国家となっていることは自明である。つまり、アメリカ合衆国という国民国家は、同質性に基づく国家ではない。では、米国国民は何に基づいてNation-Stateを形成しているのか。それは、米国憲法である。よって、他の国籍から米国国民となるとき、常に憲法を尊重するという宣誓を行わなければならない。すなわち社会契約に基づく国家なのだ。トランプが議会襲撃を煽ったことが、例え大統領経験者といえど、アメリカに対する反逆と受けとられているのは、米国憲法を尊重するということが、米国民にとって米国という国家の拠り所であることを示している。

 もう一つ例を挙げよう。シュロモ・サンド著の「ユダヤ人の起源」の原題は、「The Invention of The Jewish People」である。著者は、ユダヤ人(と称する人々)が、いかに自分たちをPeople(国民)とするために同質性としてのNatioの幻想を作り上げることに努力したかということを実証しようとしている。つまり、社会契約だけでは不十分であり、Natioがあった方が国家を作りやすかったのだ。二十世紀初頭には、啓蒙思想に基づく国民国家から民族や文化という同質性に基づく国民国家への転換が始まっていたのだ。しかし、それは国民国家の基本が社会契約にあることを損なうものではない。むしろ、同質性を持った人々が社会契約の理論を応用して、自分たちの自己責任という総意に基づく国家を求めたということだ。もし、同質性が国民国家の成立条件であるならば、前近代のどの時代にも、国民国家が成立し得た。しかし、どの時代にも同質性を持った人々の集団は実在したが、彼らが総意で国家を作った例は皆無である。

 次にグローバリズムについて。Wikを見ると、「地球を一つの共同体と見なして、世界の一体化(グローバリゼーション)を進める思想である。字義通り訳すと地球主義であるが、通例では、多国籍企業が国境を越えて地球規模で経済活動を展開する行為や、自由貿易および市場主義経済を全地球上に拡大させる思想などを表す」とある。これは現在の事象の表面をなぞった程度で、 グローバリズムの本質的な意味を全く示していない。
 
 本ブログでも度々言及しているが、人類の歴史は、「生産力の追求」である。第一次産業革命と言うべき、食用植物の栽培化と食用動物の養殖化、第二次産業革命である科学技術の発達に基づく工場での大量生産、大量輸送、大量消費という消費社会の実現。そして現在の第三次産業革命であるネット社会の実現。これらは、すべて、如何により多数の人間が物質的に豊かな生活を享受できるかを追求してきた結果である。その中で、一貫して発達したのが、生産と消費の行程に関わる人々の分業である。つまり、グローバル化とは、生産と消費を究極的に高めるために必然的に世界規模の分業を実現していこうとする道程である。多国籍企業の利益追求や新自由主義の経済政策の結果などというレベルの話ではない。

 そして、夙にマルクスが指摘したように、分業は人類の類的な共存性を物質的な疎外態として示すものであり、そのように解釈すれば、グローバリズムは人類の世界的な連帯を生み出そうとするものである。実際、世界は、主要国の連携と協力がなければもう前に進めなくなっている。あとは、個々の人間の意識覚醒の問題である。そしてそのためのツールとして、すでに我々はインターネットという、国や地域を超え個々人の直接的なつながりを可能とする装置を持っている。

 多くの社会科学の論者は、現今の主権国家は永続的にそれぞれの国民が帰属するものとして存続するという前提から逃れられないように見える。しかし、歴史上、永久的な国家は存在しない。国家の枠組みは変動するものだ。主権国家といえど、例外ではない。すでに、世界の主要な主権国家は軍事を除くほぼすべての分野で連携しつつある。仮に世界連邦が実現し、各国がその軍事力を分担し、それぞれの安全保障をその分担によって担保し、地域紛争は世界連邦の警察軍による鎮圧に委ねることになれば、一挙に世界平和が実現するであろう。今世紀中にそのように歴史が動くことを期待している。

 もう一つ、付言しておく。「Globalization」とは、イギリスの社会学者であるローランド・ロバートソン博士が提唱した概念であるが、博士がピッツバーグ大学教授の頃、国学院大学百周年の記念講演に来日され、私は、当時の阿部美哉学長のお誘いを頂いて聴講し、その後、お話をさせて頂く機会があった。その際、グローバル化は普遍主義でしょうか?地域性はどうなりますか?とお尋ねすると、実際に起きるのは「Glocalization」です。人類は、それぞれの多様性を維持しつつ、グローバルに連携していくのです、とお教えを受けた。この点については、本ブログ中の「グローバリズムはどこへ向かうか?」に記した。ナショナリズムとグローバリズムの将来もそこで論じている。                                  (2020/03/07)

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