宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

天皇と神社・神道

2013年1月26日   投稿者:宮司

 以下は昭和61年(1986年)8月8日、神道青年全国協議会の夏期セミナ−において発表した内容のうち、前置きに当る部分を削除し、その他細部の表現に若干手を加え整理したものです。意味内容については、発表時と全く変わっていません。

 天皇と神社・神道

 神道における天皇論の出発点は、申すまでもなく、記紀に述べられた肇国の神話であり、その骨格を形成するところの天上無窮の神勅を初めとする天照大神より皇孫に与えられた三つの神勅です。この神勅により、天皇は永遠に日本の王であること、宝鏡を代表とする三種の神器が皇位の象徴として不可欠なものであること、また、稲作は神から与えられた御業であり、日本は農業を基本とすべき国柄であることが語られており、これらの神勅によって示される、天皇が日本の政治、祭祀両面における王であると云うところから国体と云う理念が導かれるわけです。

 即ち、皇室、そしてその家長である天皇が日本の政治と祭祀の最高責任者であり、国家、国民の統合の中心であるとする考え方であり、この天皇による祭政一致という形態こそが日本の国体とされるのです。従って、そこでは、祭祀権と政治的支配権が不可分の状態で天皇に帰属しています。また、天皇は、祖先である神の命ずるままに祭政を掌どり、国民は、天皇に習って神々を祭り、天皇を助け、天皇の治世が永遠で在ることを願うのです。天皇は、国民にとって限り無く神に近い存在、現人神であるとされます。この信仰と政治の共存、君民一体の思想が国体論の特徴であります。

 古事記、日本書紀につきましては、歴史学の定説として、古代中央集権国家を作り上げた天皇家の権威を確立すると云う政治的目的を持って製作されたものであり、文献学的にも一級資料、即ち真実の記録に極めて近いものとは見なされておりません。

 しかし、記録の真偽はどうであれ、神社神道が信仰の領域において、記紀を教典に最も近いものと捉えていることは事実であり、その限りでは、この国体の理念は信仰者にとっての真実となるのです。

 ところで、天皇は日本の王たるべきことという命題は、極めて具体的に現実政治の局面における天皇の位置の問題と不断に関わって参ります。神社神道が天皇を論ずるとき、優れて政治論の色彩を帯びて参りますのは、この理由によります。

 ここで、天皇の現実政治における位置付けを簡略にたどり、特に戦前、戦後の天皇制について考えてみたいと思います。

 一切の政治と祭祀の実権が天皇に掌握される天皇を中心とする中央集権的な体制は、古代国家において成立したと考えられます。しかし、9C以降、天皇の政治権力は次第に形骸化し、12Cの武家政権の誕生とともに政治権力は武士に移り、建武の中興による一時的な例外はあったにせよ、19Cの明治国家の成立にいたるまで、朝廷は政治権力から遠ざけられたのです。

 しかし、天皇の政治権力が形式的なものであった1000年の間も、国家統治の根源は天皇にあるとする考え方は、武家政権時代の支配者であった将軍を天皇が任命すると云う形式的手続きを守ることにより慣習的に維持され、名目的な意味での天皇の権威は一貫して保たれてきました。従って皇統も古代国家成立以降は絶えることなく保たれ、また、神々にたいする皇室の祭りも行われてきました。日本の天皇が万世一系と称される所以であります。

 ところで、この約1000年に亘る長期間続いた、名目的な国王としての天皇の存在の仕方は、いわば「君臨すれども統治せず」といった、実質的政権担当者ではなく国家権力の形式的な象徴としての天皇の在り方を、事実として作り上げてきたといえます。天皇の存在が、2000年以上の歴史を通じて維持されえたのは、この名目的存在に留まる事により、政権争奪の荒波から隔離されたために可能であったとする論は、今日、かなりの人々による定説となっています。そして、世俗的権力から遠ざかる事により、皇室は、伝統祭儀、伝統文化の保持者となり、天皇は祭り主、いわゆる「みやび」の王としての性質を深めたのです。そして、このような、天皇は名目的権威者であり、実質的政権担当者は別にあり、天皇は裁可する役割をのみ持つところに天皇制の君主制としての優れた特質が存するという論が、現在、多くの民族主義者のなかにも存在することは、現実的妥協ということを考慮にいれても、なお興味深いことです。

 さて、幕藩体制末期となり、次第に強まる開国の圧力と列強のアジア進出のなかで、対外的危機の打開を求める様々な学問や議論が沸騰し、中でも、国学と儒学の大義名分論の影響のもとに尊皇論が勃興し、天皇の伝統的権威が、明治の絶対主義国家の成立とともに、実質的な権能を持ったものとして復活しました。尊皇論による国体の理念は、地方分権的な幕藩体制に変わる中央集権的な近代国家創出のための政治イデオロギ−として利用され、近代的な法律と制度のもとに天皇の神格化と政治と祭祀の権力の集中がなされたのです。 明治政府は、当初、古代への復古を強調し、政治機構においても、祭祀を司どる神祇官を政治を司どる太政官の上に置き、祭祀並びに神社行政を掌握させました。しかし、近代国家においては、祭祀に比べ政治の領域が格段に重要であり、官僚機構の整備充実が必要であることから、直ぐに神祇官を廃し、幾つかの制度の変遷を経て、10年後には、内務省社寺局という一部局が誕生し、暫くの後、神社局と宗教局に分離されました。この事実は、明治国家においては、祭政一致は、イデオロギ−として重要であったが、政治機構としては、祭祀と政治は同格に扱われていなかったことを示しています。

 明治国家は、当初の藩閥政治から、西洋の自由主義と民権思想の流入のなかで、明治22年には大日本帝国憲法、通称明治憲法を制定し、議会を開設し、立憲君主制を志向しました。

 ところで、この立憲主義というものは、本来、権力の恣意的行使の制限を目的としています。より具体的には、中世の国王の政治権力を法により制限し、貴族の身分的特権を確認せしめたイングランドのマグナ・カルタに始まり、絶対王制時代を経て、民主主義の高まりとともにこれと結び付き、民主主義を機構的に保証するものとして、権力への制限、具体的には権力の分立、例えばジョン・ロックのいう立法権と執行権の分立、モンテスキュ−のいう立法、司法、行政、三権の分立を制度的に保証するものとして発展しました。

 つけ加えて、民主主義の基本概念についてもここで申し上げておきます。民主主義思想の成立は、個人の成立、即ち個人は生まれながら自由、平等であるという観念の成立に始まります。即ち、それまでは、人は生まれながら与えられている共同体に属し、与えられた社会秩序、たとえば絶対王制のもとでは全ての土地、人民は国王のものであり、国王に支配されるという社会秩序に従わねばならないとされていましたが、この考えを否定し、社会は与えられたものではなく、一人一人の個人が、自分達のために、社会契約により政治社会を組上げ、共同生活を作り出して行くものであるというのが民主主義の根幹であります。

 この2点を踏まえつつ明治憲法をみるとき、第1条の「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」、第3条の「天皇は神聖にして犯すべからず」とあるところから、肇国の神話に由来する歴史的伝統に依拠して支配の構成原理を示しているといえます。従って、それは、国家を即自的に与えられた共同体として国民に受け入れさせるものであり、民主主義の根本則から全く離れたものです。

 また、明治憲法では、天皇に、軍隊の統帥権、官僚の任命権をはじめ広範な天皇大権が与えられており、君主権は事実上制限されておりません。また行政担当者である内閣は、議会に責任を負わず、天皇に対してのみ責任を負っていました。さらに、重臣、元老と称される憲法に規定されない特権的地位の存在があり、首相の選任や政策の決定の際に天皇を補佐し、大きな影響を与えました。

 このような体制では、実質上、立憲主義は機能せず、議会政治も充分なものではなかったのです。

 しかし、この事実をもってして、天皇が専制君主であったとはいえないのです。それは何故か。

 ここに、日本の天皇は王道の王にして覇道の王ではないという、王覇の別が指摘されるわけです。

 それは即ち、天皇は祖訓のまにまに君民一体となって政治を司どる存在であるので、本来、専制政治を行われる存在ではなく、絶えず、臣下、国民、明治憲法下では、元老、重臣、大臣、将官、議会等の意見に耳を傾け、彼等の手になる決定を尊重されるのであって、西欧的な、征服等の戦争行為により政治的権威を確立し、専制政治を行う君主、即ち覇王とは異なるというものであります。

 この王道論については、後に顧みることとし、ここでは確かに、明治憲法下、帝王学として王道を身につけられた天皇が、「君臨すれども、統治せず」的な、英国的立憲君主として振舞われたであろうことは、とりわけ、今上陛下の、平和主義者でいらっしゃりながら、第2次大戦の開戦を決意された経緯を顧みますと理解されると云うことを申し上げておきます。このことはまた、明治憲法下の日本が、大正デモクラシ−の中で、吉野作造の民本主義等により、その運用において立憲的色彩を濃くし、具体的には政党政治が可能になったこと、また、今上陛下が皇太子の砌、英国を訪問され、英国型立憲君主を密かに理想とされたこと、或いはまた、美濃部達吉に代表される立憲主義学派の影響等も理由として存在していると考えられます。

 然しながら、このことをもって直ちに、明治憲法下の体制は、民主的な立憲君主国であったとは言いえないのであります。その理由は、明治憲法の法としての実質に因るものです。即ち、先に述べた諸種の非民主的な条項により、天皇の側近たる一部の重臣、官僚、軍人達の合議、或いは力関係にもとづく、小数者による天皇の名のもとでの専断政治が充分に可能であるからです。

 もちろんこの点についても、王道論の外延としての徳治主義的な観点からの反論も可能です。それは、天皇の人となりと存在のありかたは、正に皇祖神の教えを受け継ぐものであり、人倫の道の模範である。臣下は、この天皇の示す道義性を学び、その心を頂くことにより理想的な人格となり、立派な政治を行う事が出来るというものです。

 ところが、天皇の存在の在り方が王道主義である、或いは又臣民が天皇にならい高潔な人格を維持し、君民一体、挙国一致にして生々化育を遂げ、八紘一宇を完成する、といったことは道義的、精神的に定められるのであって、憲法ないしはその他の法律によって、制度的に定められるものではないのです。即ち、個々人の、或いは民族総体のといったほうが適切かもしれませんが、徳性に依拠して観念的に構想される事であり、現実的に保証されるものではないのです。

 仮に明治憲法下の体制が、そのような君民関係を制度的に保証するものであったなら、君側の奸を抹殺しようとする多くのテロ事件、血盟団、5.15、2.26等の事件は起こらなかったと思われます。

 現在では、明治憲法下の最後の10年間は、軍部、右翼勢力が、統帥権の独立を盾に議会政治を踏みにじり、ファシズム体制を作り上げていったことは定説となっています。君民一体のスロ−ガンは、民の声を聞く政治ではなく、民の声を封殺し、極端な全体主義体制を作るために利用されたのです。

 以上で明らかなごとく、いわゆる政治イデオロギ−としての天皇制を中心に据えた明治憲法下においては、君民相和す理想の形態は、制度的に保証されず、政治に参画する諸個人の道義性によってのみ、可能性が開かれていたのです。それは、基本的に、天皇を君主とする、神権的、家族主義的国家の理念が所与のものとして前提され、立憲的色彩を加味することにより成立した政治形態でありました。従って、一旦道義性が崩れた場合、それは不断に専制的支配の装置と化す宿命を有していたのです。

 元来、王道とは、中国の周の時代の理想的な国王の在り方を示すものであり、それは儒教に受け継がれ、孟子によって強く提唱され、広く敷衍しました。即ち、家族道徳である孝を本とし、仁を強調する道徳的国家、徳や礼を法より重んずる徳治主義、礼治主義の国家における君主の道として唱えられたものです。

 儒教は、優れた君主を戴く家族共同体的国家、家父長制国家を理想とし、強い保守主義と伝統主義の色彩を帯び、既存秩序の保守に最も適した政治原理を提供します。「民は由らしむベし、知らしむべからず」と孔子がいうごとく、民主的な発想はかけらもありません。

 これに対し、民主主義は、基本的に、諸個人は一切の所与の共同体、或いは生まれながらの束縛を離れ、自由である権利を有するというところから出発します。この状態では、各人は、欲望と意志の赴くところ、互いに衝突せざるを得ません。ホッブスはこれを「万人の万人に対する戦争」状態といいます。これを解決するため、各人は、互いに固有の権利を主権国家という第三者に与えるという社会契約を結ぶことにより、国家が成立すると考えます。

 このようにして成立する国家は人民主権の国家でありますが、万一、政府が、人民の生命、自由、財産を犯すような事があれば、人民はこれに抵抗し、革命を起こすことが出来るとロックは説きました。

 このような政府の専制、横暴を防ぐ手段として、従来貴族が国王の権力の制禦のために利用しつつ歴史的に発展してきた立憲主義と議会政治を採用し、また、権力の分立を図るわけです。

 アメリカ独立宣言の父として有名なトマス・ジェファ−ソンは、「自由な政府は、信頼にではなく、猜疑(Jealousy)に基づいてつくられる」といいます。

 民主主義の政治は、その基礎として諸個人の自由権の最大限の保証を行いつつ、立憲主義、議会政治、権力分立等の諸制度を取入れ、相互に権力を監視、制約し、チェックアンドバランスの機構を制度的に保証することにより、専制、独裁、全体主義への傾斜を防ぎ、民意の政治への反映を可能とするのです。

 このように考えるとき、国民主権、基本的人権の尊重を眼目とする日本国憲法が、民主主義の実現に道を開くものであることは、紛れない事実であります。なお、日本国憲法の今一つの柱である平和主義は、それ自体理想的なものでありますが、成立時の情勢からして日本非武装化を狙いとしており、その後、解釈改憲により、自衛力の行使が可能となったことはご承知のとおりです。本論では、この問題には、これ以上立入りません。

 日本国憲法は、マッカ−サ−草案をもとにしながらも、手続き的には、大日本帝国憲法第73条の改正手続きを経て、天皇の名において公布されました。しかし、その内容は、先にみたごとく、明治憲法の天皇主権を否定し、国民主権を中心に据えた革命的なものです。本来、憲法の改正は、その基礎原理を喪失しない範囲での改正のみが可能であることが原則であり、この観点からすれば、この改正は誠に不可解と云わざるを得ません。いわば、自らを否定する憲法を作ったということです。

 従って当然、憲法制定国会においては、憲法の連続性に比して、国体の連続性、天皇の地位の連続性が保たれているかどうかが焦点となり、金森国務相によるあこがれ象徴論が出される等、様々な論議を呼んだのです。(憧れ象徴論=天皇を国民の「あこがれ」の中心とする意味での国体は変わらぬ。法律上の国体は政体であり、これは変わったが、君臣一如の道義こそが真の国体であり、これは変わらないとする説)

 日本国憲法では、天皇は、国民の総意に基づく象徴として、内閣の助言と承認に基づき、総理大臣、最高裁長官の任命、憲法、法令、条約の公布、国会の召集、衆議院の解散、総選挙の公示、国務大臣他官吏の任免、全権委任状及び大使公使の信任状の認証、大赦、特赦、減刑、刑執行免除と復権の認証、栄典の授与、批准書等外交文書の認証、外国大公使の接受、儀式を行うことを規定しています。

 このように国家の代表としての国事行為が認められており、又、この内容は、民主的な立憲君主制と評されるべき、ベルギ−国憲法における国王の国事行為と比して遜色がないことを考えれば、日本国憲法における天皇制は、極めて民主的で、君主権の制限された立憲君主制とも言えましょう。そして勿論、政治イデオロギ−としては、国民主権と民主主義が眼目であり、天皇は、政治的には形式的な存在として存続しているといえましょう。 このような状態で、国体は果たして保たれているか、答えは勿論、ノ−であります。その故にこそ、神社界では今なお、国体の真姿顕現が大きな目標となっているわけです。

 しかし、先に論述したごとく、国体の具現と民主主義の成立は、本来矛盾するものです。国体の具現への希求は、よくいって家族共同体的な、前近代的な儒教国家、悪くすれば、一部の人々が天皇の名を借りて支配する全体主義国家、それは自由の抑圧という点で現在の一部の社会主義国家とよくにた形態になるはずです、これをもたらすでしょう。私が、政治イデオロギ−としての天皇制、国体論を拒否するのはこの理由によります。

 さて、私は、天皇の存在を否定しようとするものではありません。

 現在のところ、論証し得たのは、記紀の伝承を絶対的なものとするかぎり、国体の具現は神道の理想であり、それは、現代に望ましいと考えられる政治体制とは相容れないものであるということです。

 さて、国体は、天皇による祭政一致を原則としていますが、政治的支配者としての天皇の存在は、人類史における政治制度の発達の上からいっても、望ましくないものです。しかし一方、祭祀の王としての存在は、それが政治的権能から分離されていることを条件として、民族の伝統、文化的価値の具現として、大いに認められてよいと存じます。

 現在、世界史は真の意味での地球史に突入し、様々な諸文化、諸伝統、諸宗教、諸思想、諸民族が、相互に認め合いながら、人類社会、さらに大きくいえば地球共同体の健全な発展と調和をもたらす為に努力することが要請されています。

 このような状況の中では、それぞれの価値を共有する諸集団は、その集団のアイデンティティ−を確立しながら、他者を認めることが重要となってきます。さらにいえば、他者を認め合うという条件の範囲内において、自己のアイデンティテイ−を充分に確立することが重要となって参ります。

 私は、その意味で、天皇の文化的、伝統的価値の重要性を認め、これを保存し、そこに潜む民族の知恵を学びとっていかなければならないと思います。

 この観点で現憲法を見るとき、伝統文化の具現者としての天皇が明記されず、且つ又、大嘗祭の定め等が存在しないことは不満に感ぜられます。

 しかし一方、天皇の維持する文化伝統は、常に国体論の源泉となり、国体論と結び付く事により、政治支配の原理に転化する可能性を有しています。このアポリアを克服し、民主主義を最優先し、天皇制を政治イデオロギ−と為さないためには、憲法上、充分な配慮が加えられなければならないと考えられます。また、天皇の保持する文化伝統は、極めて神道的、宗教的なものであるが故に、その尊重が、個人の自由権の一つである信教の自由と抵触する事がないよう、充分な注意が払われなければならないでしょう。

 さて、近年、新京都学派といわれる人々が、日本文化の研究のなかで注目されています。彼等は、桑原武夫、梅原猛、梅棹忠夫、上山春平氏等を中心とするグル−プですが、最近、中曽根首相の了解のもとに国立日本文化研究センタ−の構想が着手され、梅原氏が創設準備委員長となり、多くのメンバ−が調査会議のメンバ−となるに及んで、俄に注目を浴びてきました。

 彼等の天皇に対する主張は、これを、日本の文化伝統の体現者として尊重しようとするもので、既に上山氏は、大嘗祭の斎行を京都でとする論を朝日新聞紙上に発表しています。 梅原猛氏は、近年特にジャ−ナリスティックな注目を浴びていますので、彼の明治維新以降80年に亘った国家神道への評価を紹介しましょう。彼は、神道は、二度、国家の統制の下に置かれたと考えます。一度目は記紀の作られた律令時代であり、それ以前の伝統的神道と比較して著しく国家統制的であり、道教の影響が、祓い、禊の神道を産みだし、又、自然神から人格神へ、自然崇拝から人間崇拝への転化があったとします。そして、二度目は明治の国家神道であり、これは、欧米の国家主義的風潮に対応し、神道から国家主義的なもののみを切り取って、伝統無視の上に作られた、ヨ−ロッパ的国家主義の産物であり、極めて非日本的なものであるとし、この成立を準備したものは、伝統の純化の余り日本の文化を捨て去った平田神道と、忠、孝を基本道徳とする儒教と神道の結合を図った水戸学であるとします。

 彼によれば、神道の本質は、国家統制より離れた1000年に亘る神仏習合時代、又、記紀以前に求められるべきであり、それは、自然崇拝より生ずる、人間を動物や植物即ち自然と同一の生命のつながりを持っていると考えること、又、世界をすべて大きな生死の循環と考えること、さらに、清浄を価値とする美的世界観に在るのです。国家神道は、近代的、ヨ−ロッパ的な神道であり、我が国固有のものではない。又、神道に固有の本質こそ、ヨ−ロッパ的価値観に支配されてきた現代世界の行き詰りを打開し、人類の未来に灯を掲げるものであると説きます。

 このような思想を見るとき、我々神道者は、神道の原典を記紀にもとめ、そこから生ずる国体への信仰にすべての神道の基礎があると考えてきたことを、もう一度考えなおさねばなりません。

 元来、日本の村や町における民衆の生活を研究する民俗学、Folkloreの領域においては、国体、或いは天皇の存在は、神道と深く結び付くものではないと考えられてきました。既に大正7年において、柳田国男は河野省三との論争において、国家神道を評して、「只一事、自分の何処までも承認せぬのは、近世の所謂神道の一つが、我国民俗信仰の本来の形を再現し、及至は多数人民の信条を系統立てたものだという主張である」といい、神道の本質は国家神道に無いと断じています。折口信夫が、「神道はFolkloreなり」としたり、又、天皇の神格否定により、「我々はこれまでの神道と宮廷の特殊な関係を去ってしまった」とするのも同じ文脈の上にあります。

 私は、神道の本質は、自然信仰より発する人間と自然を区別なく融合の内に捉えること、祖霊信仰より発する現世主義、そして家族主義を核とする共同体的信仰であること、多神教である事より発する価値多元性と相対性、又、基本的価値意識として善悪より美醜を優先すること、そこから生ずる状況倫理性にあると考えます。そして又、記紀説話、あるいはそれ以前の天皇家の伝統に基づく宮中祭祀が、天皇とともに2000年の長きに亘り続けられてきたことを考えるならば、宮中祭祀と天皇の存在そのものも、民衆の生活のなかに息づいている神道とともに、神道にとって大切な歴史的伝統として尊重されるべきであると考えます。

 そして、これらの神道の本質のなかには、その原初性の故に、近代ヨ−ロッパが失った大切な原理が存在しています。それは、具体的には、価値多元性、並びに存在論としての相対性の認識と、自然信仰、そして共同体への志向でありますが、これを保持しているが故に、今後ますます多様化しながら緊密に結び付いて行くであろう世界に対し、その本質をアピ−ルすることにより、人類の進歩に資していかねばならない義務を有していると考えます。もちろん、これは、一方では、ヨ−ロッパ的知性の生みだした優れた側面、個人の確立、合理主義、民主主義等の思想を理解し、受容する態度を要求していきます。

 現代の日本は、即自的に諸個人を包摂していた村落共同体が、工業化、都市化の進展と共に崩壊し、価値多元的で諸個人が自覚的に自立した社会に移行しつつあります。このような社会にあって神道は、伝統的な氏神信仰=共同体の信仰を基本としつつも、個人の信仰の対象としての性格を強めていくと考えられます。しかし一方、科学文明の弊害と人間疎外に悩む諸個人は、自覚化された個人を前提とする自覚的な共同体の再構築を目指すでしょうし、その中にあって、神道の人間観、自然観は大きな影響を与えていくでしょう。正に、21世紀は、宗教の時代であると断言できます。

 このような時代にあって、国体、或いは政治イデオロギ−としての天皇制へのこだわりは、時代錯誤的な国家主義のドグマを生みだし、神道の生き生きとした生命力を失わしめるものでありましょう。

 神々の末裔としての天皇は、神道を、さらにいえば記紀に語られる神道を信ずる人々にとって、信仰の領域のなかで祭り主として仰がれるべき存在であり、これを日本国民全体に政治のドグマとして押し付けることには、非常な無理があると思われます。

 日本国民にとっては、天皇は、文化、伝統の担い手として、国民の総意に基づく象徴として、政治的実権のない君主の地位にお座りになり、国民の精神的統合の中心となられるべきではないかと考えられます。即ち、政権から、注意深く遠ざけられた名目的君主であります。

 なお又、天皇の祭祀については、天皇家の守り伝える文化伝統として、国費の充分な財政的バックアップのもとに天皇家の行事として行われるのが本当でありましょう。これは、天皇を国の象徴と認める憲法からしても当然のことです。しかし勿論、このことは、信教の自由の保証と、政治イデオロギ−としての天皇制の実現を阻む注意深い配慮のもとに行われるべきでありましょう。

 私の提言は、国体を熱愛し、その回復に全力を尽してきた神社神道にとって、耐え難い事でありましょう。しかし、このセッションで「天皇は、神社神道にとって欠くべからざるものであるかどうか」といったテ−マが取上げられること自体、現実には、天皇への結び付きを欠いた神社活動が日常化している様子を伺わせます。神社界は、このテ−マについて充分な討論を交すことにより、現実を直視し、未来への発展性をもった、より具体的で可能性のある方向を、進むべき道として見定める必要がある様に思われます。本日の発言が、その運動を生み出す一石となれば、これに過ぎる喜びはありません。

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