宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

神道の教化と教学

2019年12月16日   投稿者:宮司

 過去の駄文を検索していたら、面白いものを見つけました。愛知県神社庁の機関紙に寄稿した神社神道の教化と教学についての所見です。関係者のご参考となれば幸いです。2004年のものですが、小生の基本的なスタンスが十分に示されています。

『教化のこれからと教学、神学』

はじめに
 神道の教化と教学、神学について寄稿するようにとの依頼があった。過去三十年の神職人生を通じて、たびたびこの問題については発言をしてきた。良い機会であるので、まとめてみることにする。

 1985年と記憶するが、当時開設されたばかりの「神社本庁教学研究発表大会」という催しに乞われて出場し、「現代産業社会における神道の可能性」という表題で発表したことがある。論点は、脱工業社会といわれていた現代社会、今ならさしずめIT社会というところであろうが、この時代における神道の宗教としての優位性を説いたのであるが、会場に居並ぶ当時の各県神社庁長や神道学者に最も嫌悪されたのは「天皇主権制は政治システムとしてはもはや時代遅れの制度であり、この復権をめざすことは無意味だ」という一言であった。
 現在、憲法改正が政治の道程にあがったように感じられるが、神社界においても、ごく一部を除いて「天皇主権」の復権を唱えるものはいない。なぜか?
 時代とともに人間の意識が変化するからである。従って、教化、教学も時代によって変化せざるを得ない。国家の介入があれば尚更である。
 「稽古照今」という。神社界の好きな言葉である。これは伝統の墨守を意味しない。過去を参考にして今を、そして未来を考えよといっているのだ。ならば、教学の歴史を顧みることも未来のためであろう。

神社と神道の近代化と教学の変遷
 神社と神道、そしてその教学が強烈に変化したのは、近代において二回ある。明治の初期と戦後である。神社界の多数はここで間違う。戦後しか思い浮かばないのである。従って明治以降の神社や神道の姿が伝統的であると勘違いしてしまう。
 明治の元老の一人である山県有朋が、宗教に寄生する無為徒食の輩を近代化の妨げと断じた時に、近代日本の宗教政策は宗教弾圧と決定された。当初、大教宣布などにより国民教化を図ろうとしたが、近代的な学校教育によりこれを行うこととし、「教育勅語」が制定されるのである。江戸期最大の宗教勢力であった修験は廃止され、一部を除き、寺領、社領は没収、路頭に迷う神主、山伏、坊主の如何に多かったことか。それも侍の廃止という強烈な政策の陰に隠れ、あまり知られなかった。欧米からは科学技術の提供と引き換えにキリスト教の解禁を要求され、恐る恐る飲むのだが、なんとか江戸時代の分権国家の日本を統一された中央集権の国民国家とするために、宗教から分離した神社の祭祀儀礼に国民を動員し、天皇を中心とする国体の思想を学校教育によって与えることとした。信教の自由を保証しながら、特定の宗教的な施設(制度的には宗教施設ではない)に国民を導き、祭祀を司る神職には教学や教化を禁止し、神社を内務省の管轄とする奇妙な国家の誕生である。これ以降、神職は教学と教化から遠ざけられ、学者は神社の歴史や文献学、民俗学や国体論の専門家となる。
 戦後の悪名高い「神道指令」で神社はまた宗教にもどる。しかし八十年にわたって培われた「宗教離れ」、「教学離れ」の意識はそう簡単にもどるわけがない。神社界に今なお漂う教学に対する不足感や渇望は案外このあたりが原因であろう。
 しかし、近代化以前、仏教の到来に触発された先人が度会神道や吉田神道を興し、キリスト教に触発された平田篤胤が独自の世界観を打ち立てたように、現代の我々も、時代の要求を熟知し、新しい教学をつくらねばなるまい。ついでにいえば大国隆正も尊王攘夷の時代の波をかぶったからああなったのだ。それを時代が変わっても後生大事に尊重するのは愚の骨頂だが。

現代という時代
 いうまでもないことだが、現代も時代の一つだ。すぐに過去となる。従って今の今だけを見てはいけない。過去に思いを馳せながら未来を見通し、二十年、三十年先の社会を見なければならない。明日を説いてこその「教学」なのだ。
 来年の万博のテーマは「自然の叡智」である。コンセプトは「持続可能性への学び」だ。この持続可能性は、数年前にリオデジャネイロで開かれた環境問題の会議で「持続可能な開発」という言葉が使用されたことから来ている。
地球規模で増大する環境破壊、資源の枯渇、難民の増大。それにもかかわらず、人類は科学の成果による近代化を全ての面で、全ての地域で、全ての人間が享受できるようにしようとする動きを止める気配はない。「持続可能な開発」とは、そのための開発をなんとか環境の保護と両立できないかという悲鳴のようなものだ。見通しは甘くない。
 最近、日本で、「スローライフ」、「スローフード」、「陰暦のリズム」といった言葉が流行している。近代化の行き着く先に不安を感じた人々が、前近代の生活に目を向けているのだ。もちろん、近代的な生活を全て捨て去ることなどできはしないのだが、人々は、直感的に近代化によって人類が失ったものの大切さに気付きはじめたのだ。神道の意義は、実にここにある。
 三年ほど前、国連で世界の宗教者が集う会議が開かれ、神社界からも要人が参加された。そこで、国連事務総長のアナン氏は、宗教心を持つ、信仰を持つことこそが人間の人間たる所以であると説いた。ところが日本では、明治の近代化以降、宗教を前時代の遺物のように嫌悪し、学校教育から除外し、戦後は新々宗教の暴走もあり、「宗教は気味が悪い」、「宗教はいやだ」という感覚が人々の意識となっている。戦前はまだ村や家族といった伝統的な共同体が残っており、その中でかろうじて存続してきた宗教性が、戦後は都市化と核家族化の中で失われてしまった。宗教こそが前近代の良さを教えてくれるのに・・・。
 ところで、同じ宗教といっても、俗にいう一神教と神道のような多神教では内容が異なる。現代、注目されている宗教は、「宗教以前の宗教」とか「縄文の宗教性」とかいわれる。すなわち理性の手が入っていない、理論化されていない時代の宗教的な感性が注目されている。
 人類の宗教は、本来すべて多神教であったと考えられる。しかし、人間は理性を持った存在なので、その宗教的な感性を理屈で整理しようとした。その結果生まれてくるのが、善悪二神のゾロアスター教であり、ユダヤ教やキリスト教、ムスリムのような一神教なのだ。(仏教は神を立てないが、これも理性の生み出した宗教といえるだろう)そして一神教が準備したのは、「全知全能の神が世界を創造したので、世界は合理的、数学的な存在である」という観念なのだ。それゆえに、一神教世界でのみ科学理論が生まれることとなった。
 キリスト教は「神の前での人間の平等」という観念を用意した。これが、伝統的な共同体を打ち破って「万人の万人に対する狼」という危ない世界を妄想させ、それを解決する手段としての「自然権の一部の預託による法治社会」の概念を形成させ、「民主主義」を成立させた。啓蒙思想である。神社人の多くは誤解しているが、民主主義は人間相互の「信頼」に基づくのではなく、「猜疑」に基づくのである。人間の信頼に基づく社会は、伝統的な共同体社会か全体主義の社会となる。中国はこの手の社会なので、なかなか法治国家となれないのだ。
 もちろんアメリカのような社会も、大枠は民主主義で、法治と契約の社会であるが、個々の部分では共同体が生きている。それは人間がいかに理性的であっても感性を合わせ持っているようなものだ。個別と全体、多様性と統一性といった哲学的な対立概念は感性と理性の差といっても良いし、多神と一神の差といっても良い。ということはこれらの矛盾は、人間の生き様のなかで見事に融合しているのだ。
 人類は近代化の達成の中で、その果実に目を奪われ、本来持っている感性的な理解を捨て去ってしまい、すべてが理性で解決できると思い込んだところに現代の悲劇がある。その問題について、宗教でありながら遥か古代より哲学的な視点から取り組んできたのが仏教であると考えられる。

神道の教学の今後
 このように時代を認識するならば、神道の持つ役割も必然的に定まってくる。近代化の過程の中で人類が見失った本来の人間の宗教的な感性、本源的な宗教とは何かを示し、これを取り戻し、前近代と近代のバランスを人間自身の中に作り出すことこそが、人類が持続可能な社会を形成していくための最も肝要な行為であることを明示することに尽きるであろう。
 個々の具体例を挙げるまでもなく、神社界は本能的にそういった課題に取り組もうとしている。社叢学会が万博で提示する「千年の森」構想も然り、遷宮の度に力説される伝統工芸の継承も然り、各々の神社で行われている伝統文化の継承や保存がまさしくそのための営みである。
 最後に一つ、注意を喚起しておきたい。「主権国家」「民族自決」「革命」「共産主義」といった勇ましい言葉はもうそろそろ死に体である。このような概念は二十世紀において意味を持ったが、二十一世紀にはその役割を終える。日本の再軍備や海外派兵も「国家主権」の枠組みで語られるのではなく、「国連による平和維持」や「対テロ防衛」といった枠組みで語られることになる。本論で「日本」が語られることなく、常に「人類」が語られたのは、ここに根拠がある。
 
   (2004.Sep.19th)

 

日本