宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

ロータリー会長卓話

2018年7月21日   投稿者:宮司

 2017年7月から2018年6月まで、1年間、名古屋清洲ロータリークラブの会長を務めました。毎回、例会の冒頭に、会長卓話を行いました。ロータリーの伝統です。ここに一括掲載し、後日のための記録とします。

ロータリー卓話 1 2017/7/04

 今月から1年間、会長として皆様と一緒にロータリー活動を行ってまいります。よろしくお願いを申し上げます。

 さて、卓話ですが、私の職業上、日本史の面白い裏話をさせていただきたいと思います。
 本日は、7月の第一例会ですが、ロータリーの第一例会に必ず歌われる君が代についてお話しします。
 皆さんは、君が代を歌う時、君とは、どなたをイメージして歌われるのでしょうか? 多くの皆さんは、天皇陛下ではないかと思います。明治の初めにこの歌を国家と制定した人々も、それを願っていたと思います。
 しかし、この歌詞の元となった短歌は、古今和歌集の読み人知らずの一つの歌です。元々の意味は、相手の健康がいつまでも続くようにという長寿のお祝いの歌です。
 皆さんも、お歌いになる時に、親しい人をイメージされて、その方の長寿を祈る気持ちを込めてみてはどうでしょう? また、違った感じで、君が代を歌うことができると思います。

ロータリー卓話 2 2017/7/11

 今日は日本で一番古い歴史書と言われている古事記についてお話しします。
 古事記は、712年にできたことになっています。最初の部分に天孫降臨と言って、天照大神の孫である瓊瓊杵命が地上へ降りる神話があります。よく知られているのは、日向の高千穂、つまり宮崎県に降り立ったという記述です。
 しかし、その前に、実は、伊勢の五十鈴川の近くに降りたと書いてあります。そして、内宮が作られたと記されています。
 天孫降臨の後に、瓊瓊杵命のひ孫の神武天皇が即位するのは、2677年前です。しかし、神宮の造営は、第41代持統天皇の4年、つまり西暦690年であるとされています。1327年前です。1300年の開きがあるので、この部分は、すべての歴史学者に無視され続けてきました。
 大和朝廷の直接の先祖が大和へ入ったのは、7世紀の初めかもしれません。
 あるいは、この部分は、後に書き加えられたのかもしれません。

ロータリー卓話 3 7/18

 今日は、万世一系と言われている天皇の系譜についてお話しします。
戦前の小学校や中学校の教科書では、天皇は万世一系と教えていましたが、東京大学の学生たちには、歴史学の教授が、この辺りで系統は変わっている可能性がある、といったことを講義していたと言います。
世間では、共産主義の書物などを発禁処分にしていた戦時中に、東京大学の学生寮では、そういった本が読み放題だったと言います。似たような話です。
 昔から、第14代の仲哀天皇の子供である応神天皇の実の父親は、武内宿禰ではないかという説があります。母親は神功皇后です。歴史学者の中には、応神天皇以降を実在の天皇とする人もいます。
 戦後、第26代天皇の継体天皇は、その前の武烈天皇が18歳で亡くなったので、北陸から連れてこられた応神天皇の5世の孫ということになっていますが、
ここから、現皇室の系統が始まったという説が有力となりました。
 ついでに、巷間ささやかれているのが、明治天皇は、孝明天皇の子供ではなく、南朝の系統の方を長州藩が明治天皇として擁立したという説です。本当なら、現在の安倍総理の地元の熊毛郡田布施町の出であることになります。ひょっとしたら、安倍家と内緒の親戚かもしれませんね。

ロータリー卓話 4 7//25

 今日は、縄文文化と弥生文化についてお話しします。

 若い頃、皆さんは、縄文時代は狩猟と採集の生活で、弥生時代になって米を栽培するようになったと習ったのではないでしょうか?
 しかし、色々な考古学の発見が相次いで、ずいぶん歴史は変わってしまいました。
青森の三代丸山遺跡では、縄文の人々は、ひょうたんや豆や栗を栽培していました。5000年前から4000年前のことです。
 日本に稲作が伝わったのは、中国揚子江の下流域から、九州へ、4000年前からです。千年以上の時間をかけて、日本海沿いに本州へ広がっていき、渡来系の弥生人が、縄文人に稲作を教えて、共同生活をしていたようです。次第に弥生人が多くなりますが、縄文人の遺伝子は、今でも、日本の山間部に残っています。殺し合いではなく、共存していったと考えられます。神話にある、部族外婚です。
 現在の私たちにも学ぶべきことがあるようです。

ロータリー卓話 5 8/01

 縄文の話を続けます。
 三重県の津市の津は、アイヌ語の港の意味からきていると言われています。
 そうなると、太平洋岸では、アイヌの人々は、古代には、三重県まで来ていたということになります。
 一方、日本海沿いには、青森の三大丸山遺跡が有名ですが、アイヌ文化とは異なるようです。
 現代の日本人のDNA配列には、二種類の縄文遺伝子が存在します。
 それらを考え合わせると、縄文には北の縄文、つまり太平洋を南に下った文化と、南の縄文、琉球諸島から九州、そして日本海沿いに青森まで遡った形の二種類があるように思われます。その接点が、赤石山脈、諏訪から、軽井沢に至るあたりではなかったでしょうか?

ロータリー卓話 6 8/08

 今日は聖徳太子についてお話しします。

 最近、聖徳太子は、摂政、天皇に変わって政治を行う人です、摂政の理想像を求めて、日本書紀に書き込まれたもので、実際は、厩戸王という貴族がいて、その人が全ての聖徳太子の業績と言われる事績を達成したのではない。多くの人々の業績を集めて聖徳太子という人物像を作り上げたものであるという論調が盛んです。教科書から、聖徳太子という単語が消えました。しかし、最近の右傾化路線の中で、復活する例もあるようです。

 聖徳太子は蘇我馬子と一緒に仏教の導入に努め、政治を行いました。しかし、聖徳太子の病死後、その息子は馬子の孫の蘇我入鹿に邪魔者とされ、一族は法隆寺、当時は斑鳩寺と言われましたが、そこで集団自決しています。再建された法隆寺はその怨霊を鎮めるための寺ではなかったかという説も出ています。いずれにしても、有名なわりに、謎の多い人物です。

ロータリー卓話 7 8/22

 聖徳太子の話の余談です。
 太子の定めたと言われるものの一つに、冠位十二階という制度があります。
役職に応じて、布製の冠の色を変えて、身分の上下を示すものです。
 最高の冠は、紫色でした。
 もともと、中国では、黄色が最も尊い色とされていました。
 天皇陛下が、践祚大嘗祭、つまり代替りの儀式に着用されるのは、黄櫨染御袍といって黄色です。

 紫色は、孔子の時代、約2500年前にヨーロッパからシルクロードを経て、
中国にやってきました。そして最も尊い色とされるようになりました。
 フェニキアの最大の貿易品目であった、皇帝の紫といわれた貝紫の色です。特別な巻貝の分泌液から、得られる染料で染めたものです。これが、太子の時代、1500年前には、すでに日本に伝わっていたのです。
 最近では、弥生時代の遺跡である佐賀県の吉野ケ里遺跡でも、貝紫が発見されています。

ロータリー卓話 8 8/22

 聖徳太子の業績の一つに、神儒仏一体の教え、というものがあります。
 これは、神道を根本として、仏教を枝葉に、儒教を花実にたとえて、
すべてを大切にしなければならない、と諭したものです。 

 実は、日本に最初に仏教が入ってきたとき、仏教派と神道派の間で激烈な闘争が起き、天皇の暗殺まで行われました。それを鎮めるために考案されたのが、この考え方です。

 神道、つまり自然と祖先への崇拝を基として、仏教、つまり釈迦の教えを信じて成仏することによって救われ、儒教、つまり現実社会の礼儀作法を心得て気持ちよく生きる、という日本人の生活の原点が、ここにあります。

 実際に聖徳太子が考えたことかどうかは定かではありませんが、日本文化を規定するような思想が、この時代に芽生えたことは、事実です。

 韓国では、仏教は、それ以前の宗教の聖地をつぶすような形で寺院を作っていきましたが、日本では、神道の神社と並ぶ形で仏教寺院を作っていきました。大きな違いです。

ロータリー卓話 9 9/19

 平成も31年で終わりそうです。次の天皇は、徳仁親王殿下と決まっていますが、その後をどうするかということが論じられています。

 女性の天皇は、歴代に10代ですが、そのうち孝謙天皇は次の称徳天皇と同一人物ですので、9人ということになります。この方々は、全て父親が天皇、または天皇の直系男子ですから、男系の女性天皇です。

 愛子さまは男系の女性ですから、歴代の女性天皇と同じです。江戸時代までなら、次の次は愛子さまということになりますが、明治に、皇室典範で、天皇は男系の男子に限る、と定めていますので、それに従えば、次の次は、秋篠宮かそのお子さんの悠仁さまということになります。

 しかし、このままでは、皇統は、現在の皇室のご家族の範囲では、後継者がなくなることがありそうです。そこで、明治に廃止した旧宮家の復活を主張する人々もいます。男系の男子にこだわるならば、現皇室とほとんど縁もゆかりもない方が天皇になるということも考えられます。それで良いのでしょうか?

 現在の皇室ご家族が、国民の敬愛を受けている実情を見れば、ロータリーのように、女性も男性と同等に皇位継承権を認めるべきであろうと思います。何よりも、家の後継は、外部が口を出すことではなく、お身内で決められれば良いことではないでしょうか?

ロータリー卓話10 10/10

 飛鳥時代の人々を描いた絵が、高松塚古墳壁画や、聖徳太子の肖像画に見られます。そこに描かれた人々は、立礼、つまり椅子の文化の服装をしていることに気がつかれたでしょうか?

 稲作を日本に伝えた倭人は、中国にいる時から、屋根の低い家に住む座礼の文化でした。縄文人も椅子を使っていません。ですから、北魏で書かれた魏志倭人伝では、倭人は、這いつくばってお辞儀をすると書かれています。日本の地方は、昔から、座る文化でした。椅子の文化が、飛鳥時代に入っていたということは、中国、朝鮮からやってきた人々と文化が、中央政府を形成したということです。現在のご皇室が朝鮮にルーツを持つということは、今の天皇陛下もお話されています。当時は、中国語や朝鮮語が、公用語であったかもしれません。

 平安時代になって、中央も座る文化、座礼に変わりました。平安が、国風文化の時代と言われる所以です。明治になって、再び椅子の文化が西欧文明とともに入ったのです。
 

ロータリー卓話11 10/24

 北朝鮮の北側に、中国吉林省があります。
 そこに、414年に建てられた広開土王の碑があります。

 高句麗の19代の王様の業績を書いたものです。その中に、399年、倭国が新羅と百済に進出し支配したので、翌年、新羅に5万の軍隊を送って倭軍を撃退し、任那、加羅に迫ったが、百済軍の一部に新羅の首都を占領されてしまい退却した。404年に倭国が帯方地方、現在の北朝鮮です、に侵入したので、これを撃退した。とあります。5世紀の前後には、倭国は、朝鮮半島深く進出し、国を作っていました。新羅、百済は、一時期倭国に敗れた様です。当時、朝鮮半島の南端には、任那という国があり、倭国と同様の文化を持っていました。中でも、金官加耶という国には、糸魚川産のヒスイが多数あり、これは、新潟、朝鮮南部、北陸、出雲、九州を含む文化圏が存在したことを証明しています。

 大和朝廷成立以前には、日本と朝鮮半島は、あたかも一つの国の内乱のような様相であったようです。百済や新羅から多数の人々が大和へやってきて、新国家建設に協力したことでしょう。

ロータリー卓話12 11/21

 奈良時代といえば、奈良の大仏の建造が思い浮かびます。

 当時の日本に災害や疫病が流行したために、聖武天皇は、仏の力を助けにしようと、全国に、国分寺、国分尼寺を作り、さらに奈良に盧舎那大仏を作りました。その皇后である光明子は、悲田院、施薬院を作り、また、正倉院を建立しました。彼女は、藤原不比等の娘です。皇族以外の最初の皇后であり、これ以降、藤原氏の勢力が朝廷を支配しました。

 朝廷の礼法が立礼から座礼に変わり、仏教の全国展開の基礎が作られました。大変面白いのは、日本の場合、仏教の施設である寺が、神社の隣に建てられていったということです。通常は、古い宗教の聖地を破壊してその上に新しい宗教の施設を作ってしまいます。これは、聖徳太子の神儒仏一体の教えの影響であったと思われます。現在もなお、在家の仏壇の隣に神棚があるという日本の文化は、ここからきています。

ロータリー卓話13 11/28

 古代の日本は、朝鮮半島の国々との交流が中心でしたが、飛鳥時代から平安時代になると、それに加え、中国との文化交流も盛んになります。遣隋使、遣唐使、遣渤海使、遣新羅使が派遣され、様々な文化が日本にもたらされました。これらの交流は、9世紀末には停止されますが、日本文化に与えた影響、特に政治制度や仏教の成熟に果たした役割は大でした。
 律令制度や都の配置などはすべて中国から学んだものであり、初期の渡来僧鑑真は仏教の戒律の思想を教え、中国派遣学僧の最澄と空海は法華経と密教の精髄を日本に持ち込みました。
 天台宗の最澄と真言宗の空海は、共に密教を日本に伝えた僧として有名ですが、実際は、最澄は、大乗仏教の真髄である法華経を天台宗の根本経典としました。法華経は大乗の思想、すなわち一般のひとびとを仏教によって救済するという思想です。日蓮の立正安国論、法然や親鸞の弥陀の本願、創価学会や立正佼成会の布教の元となっています。
 これに対し、真言宗は、人間は自然に生きよ、という趣旨の理趣経を根本経典とし、修行を通しての成仏に主眼を置いています。最澄は、素晴らしい学者でしたが、修行僧としては空海が優れ、最澄は密教の秘事を空海に学んでいます。

ロータリー卓話14 12/05

 奈良時代に日本文化の基礎ができたとすれば、平安時代は、その成熟期であったといえましょう。それまでの日本語は、中国の漢字を借りて、カナ表記も行なっていました。その漢字を簡略化することにより、平安時代に日本独自の文字であるひらがな、カタカナが発明され、貴族文化の成熟の中で、源氏物語や枕草子をはじめとする女流文学が発展しました。
 また、平安時代は400年近く続きましたが、その間、300年ほどは、死刑が廃止され、流刑が最高系でした。現在の世界では、先進国の殆どが死刑を廃止しており、死刑制度がある先進国は、米国、中国と日本だけです。韓国やロシアは、死刑制度はありますが、それを凍結しています。中国は、死刑の大好きな国です。日本人は死刑が好きかといえば、平安時代を見る限り、そうではなさそうです。

ロータリー卓話15 12/12

 井沢元彦さんの「逆説の日本史」で取り上げられてから、すっかり、日本文化の中の、怨霊信仰ということが有名になりました。これは、平安時代に始まった御霊会がその起こりです。
 御霊会とは、思いがけない死を迎えた者の霊魂による祟りを防ぐための、鎮魂の儀礼であり、御霊祭とも呼ばれていました。本来は、神道的なものですが、仏教の経典を読み、舞曲を奉納し、神輿の行列なども行いました。実は、これが、日本の夏祭りの起源です。
 昔は、皇位継承の争いに中で憤死した早良親王や謀反の疑いで流刑となり、旅の途中で病死した橘逸勢や、有名なところでは、讒言により左遷された菅原道真などの御霊を祀ったのですが、京都祇園社では諸悪の総大将ともいうべき牛頭天王を祀り、祇園御霊会を行うようになりました。これが今の祇園祭です。ですから日本の夏祭りは、すべて怨霊を鎮める御霊会であると言って良いでしょう。

ロータリー卓話16 12/23

 クリスマス家族会に、皆さん、ようこそおいでくださいました。
クリスマスは、イエス・キリストの誕生日であるということになっています。
しかし、これは、キリスト教が布教の際にヨーロッパの原始宗教の祭を取り入れたものです。それは、冬至祭です。北半球で、太陽の力が最も衰えて、この日を境にその力が再生して行く、死と再生の祭で、古代の宗教には必ずあったものです。
 同じような過去の宗教の影響を受けた行事として、キリスト教には、復活祭とハロウィンがあります。
 復活祭は、キリストが死後、三日目に復活したことを祝う祭りとされていますが、実際は、春分の後の、豊作祈願祭です。また、ハロウインは、秋の収穫祭です。日本の神社の祈年祭と新嘗祭に当たります。冬至祭は、伊勢神宮で行われています。
 クリスマスは、外国の宗教の祭りではなく、元々は、世界的な宗教行事なのです。
 本日は楽しく御過ごしください。

ロータリー卓話17 1/09

 鎌倉幕府を開いたのは、源頼朝ですが、日本人に愛されているのは源義経のほうでしょう。判官贔屓という言葉の所以です。源義経と織田信長は日本史上に例を見ない優れた戦術家でした。
 平清盛は日本で最初の武家政権の基盤を作りましたが、反対する諸勢力が多岐に渡り、その確立まで至ることなく死亡し、後を受け継いだ三男の宗盛もなすすべなく木曽義仲により京都から追われ、後白河法皇により朝敵、賊軍とされ、源義経により一ノ谷、屋島壇ノ浦の戦いで滅ぼされたことはご承知の通りです。源頼朝は、後白河法皇に、平家を滅亡させないのであれば、源平ともに使っていただきたいと嘆願しているように、気の小さい人であったようです。義経は、戦術は見事でしたが、政治、政略には無頓着で、後白河法皇に唆され、結局貧乏くじを引きました。
 人物像を見ると、後白河法皇が一番の権謀術数の政治家で、人格智謀ともに優れていたのは平清盛、小心だが運良く天下を取れたのが源頼朝、義経は世間知らずの戦術の天才といったところでしょうか。

ロータリー卓話18 1/16

 鎌倉幕府を開いたのは、源頼朝ですが、源家で実質的に権力を握ったのは頼朝一人です。その血筋は三代の源実朝で終わります。その後は、京都から代々の将軍を迎えて、その権威により御家人、すなわち武士を服従させ、実質の権力は、執権の北条氏が握ります。これが鎌倉の幕末まで続き、14代目執権の北条高時は、1333年の後醍醐天皇の建武の新政の始まりで殺されて、鎌倉時代は終わります。
 この時代は、朝廷や貴族の権威と新興の武士の力が複雑に絡み合った時代と言えます。荘園制や国司制度は存続し、そこに新たに守護地頭の制度がおかれ、各地で、領有権をめぐる紛争が絶えませんでした。武家の法のモデルとなった御成敗式目は、この紛争調停の基準を示したものです。天皇は政治へ関与する意欲を持ち続け、完全に名目的な権威となるのは室町時代の南北朝合一以降、すなわち1392年以降のことです。

ロータリー卓話19 1/30

 御伽草子というものをご存知でしょうか?鎌倉から江戸期にかけて多数作られた絵物語です。鎌倉時代の一つに山賊の絵が描かれています。剣を振りかざし旅人を襲おうとする山賊は、紅毛碧眼です。この時代にゲルマン系の人々が日本にいた証拠です。彼らは、定住の人々と共存できず、山中に隠れ住んだのでしょう。鬼の伝説はそんなところから生まれたのかもしれません。
 鎌倉期には、軍隊の移動をスムースに行うために、日本中に街道が網の目のように作られました。鎌倉街道と言います。街道に沿って、没落した朝廷や貴族に仕えていた部民が地方に流れ出しました。彼らは、芸能や職工の専門職で、農民に舞や神楽を教え、鉄器や生活用品を提供しました。いわゆる中世漂流民の誕生です。静御前は白拍子の一人でしたが、白拍子の女性は、舞い手であると同時に、男性の性の相手を務め、体を合わせることで男性の厄や汚れを取ると信じられていました。梁塵秘抄は、白拍子の口ずさむ今様という歌謡を後白河法皇が編集したものです。女性の純潔とか貞操の観念はなく、それらは、江戸期以降、儒教道徳の広がりとともに作られたものです。男尊女卑の観念も同様です。古代から女性天皇は多く、夜這いの風習は、貴族平民を問わず常態化していたと思われます。

ロータリー卓話20 2/06

 建武の新政を行なった後醍醐天皇は、古代に戻る天皇の専制政治を目指し、無茶な政策を連発し、武士層の反発を買い、建武政権は、わずか3年で幕を閉じました。
 しかし、江戸時代の国学者たちがこれを高く評価したために、明治になって、後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成や新田義貞が英雄とされ、別格官幣社に祀られ、逆に足利尊氏は天皇に刃向かった逆賊とされました。実際は、土地所有権の継続の否定、皇居新設のための課税、新貨幣の発行など、矢継ぎ早に政策を決定し、無理と見るやまた別の政策に変更し、朝令暮改の不安定な政治を行ったのが、後醍醐天皇でした。執念深く、先の見通しのない、独り善がりの人物であったようです。これに対し、足利尊氏は、機を見るに敏で、時代をよく見通していて、地に足のついた人物でした。
 楠木正成は、「七生報国」という、七度生まれ変わっても天皇に忠誠を尽くすという言葉で有名です。太平記に出てくるのですが、これは、武士道の書の葉隠などに影響を与え、忠義の名言となっていきます。

ロータリー卓話21 2/13

 今日は、清洲城での例会ですので、信長について話してみます。
信長は、あの時代にあって、実に考えもつかないようなとんでもない人物です。
 当時の世界情勢を考えてみましょう。16世紀に、スペインとポルトガルは、植民地時代の幕を開けました。その前半に、南米の、インカ、アズテッカ、マヤの千年以上続いていた文明を滅ぼし、植民地としました。最初にキリスト教を布教し、次に軍隊がやってくるのです。
 信長の少年時代、鉄砲がポルトガルから日本に伝えられました。戦国時代の日本です。最初に鉄砲の武器としての有用性に気がつき、鉄砲隊を組織したのは、織田信長です。瞬く間に鉄砲は日本中に普及し、16世紀後半には、世界で一番鉄砲を持っていたのは、日本でした。
 同じ頃、インド経由で、日本に宣教師が到達し、信長は、これを伝統的な仏教勢力に対抗するために利用し、その布教を許しました。でも、なぜ次に軍隊がやってこなかったのでしょう?それは、信長が育てた日本の武装が強いので、警戒し、様子を見ていたのです。
 秀吉と家康は、この植民地とする政策に恐怖し、秀吉はバテレン追放令、家康はキリシタン禁令を発布し、鎖国政策をとりました。
 信長は、キリスト教を利用し、秀吉と家康はキリスト教を恐れたのです。まさしく、器量の差と言えましょう。

ロータリー卓話22 2/20
 今日は、番外編を一つ。10日のIMで、講師の方が、大変面白く、現在の世界情勢と日本の進むべき方向について語っていただきました。その中で、気になることがあったので、お尋ねして見ました。それは、ご講演の中に、「北朝鮮と中国が日本の脅威である」というお話があったので、「中国は、具体的に日本をどのように料理しようとしているのでしょうか?」とお尋ねしたのです。
 お答えは、「まず、尖閣、次に沖縄を自分のモノにしようとします。沖縄は、もうほとんど中国ですよ。」とおっしゃいました。「本土はどうなるのですか?軍隊を送って占領するのでしょうか?」と尋ねました。「そこまではしません。中国の経済圏に組み入れようとするでしょう。」というお答えでした。そうすると、現在、日本は、アメリカの経済圏の中にいて、中国が日本を支配すると、中国の経済圏の中に入るということになります。講演の中で、先生は、I phoneを示されて、これは、Designed in California, Made in China と書いてあります。これがまさしく世界の現状です、と言われました。私は、アメリカも日本も中国も世界という経済圏の中にいるのではないか、と思います。
 では、北朝鮮はどうでしょう。この国は、麻薬や偽金や、サイバー攻撃でお金を調達し、武器を売り捌いてテロを輸出しています。ですから、これは世界の脅威なのです。IS同様、この国を無くすことが必要です。それを一番望んでいるのは、北朝鮮の国民でしょう。30年前、東ヨーロッパの国々は、民衆の力で、共産主義の体制を変革しました。北朝鮮は、民衆が徹底管理され、それが不可能なのです。
 中国は、共産主義を捨てて、資本主義市場経済を選び、世界の国々と共通のルールによって経済競争を行い、豊かになろうとしています。唯一の問題点は、共産党の一党独裁の体制であり、非民主的な政治体制であるということです。
 私は、常々、中国の若者に、あなた達の時代に民主化することが中国発展の道筋です、と説いています。

ロータリー卓話23 3/06

 室町時代の一番の特徴は、この時期、「侘び寂び」という言葉に象徴される独特の日本文化が確立したことです。
 禅宗から出てきた茶道と華道、猿楽から発展した能、狂言、短歌から出た連歌、俳諧。これらは全て「侘び寂び」と呼ばれる、有よりも無を表現の中心に置く芸術と言えます。無の空間を作ることにより、有の意味付けを異なったものとします。書道と日本画もこの影響を受けて発展しました。
 日本の仏像の修復は、基本的に色彩を復活しません。奈良東大寺の大仏や興福寺の阿修羅像がその良い例です。しかし、中国や朝鮮では、修復とは、元の形に戻すことですから、きらびやかな彩色も復活します。この違いが、侘び寂びの精神のあるなしであろうかと思います。金閣寺と銀閣寺の違いといっても良いでしょう。金閣寺は足利3代の義満、銀閣寺は8代の義政の造営です。この間に侘び寂び文化の進展があったのでしょう。
 安土桃山期になると、これに、華やかさが加えられます。戦国武将は、いつ死ぬかわからない不安定な時代の中で、鎧や馬具に華美なものを使用しますが、それとともに、室町期に生まれた「侘び寂び」の心や無常観を持っていました。
この時期に生まれた歌舞伎は、華やかさと哀れさを併せ持っている芸術です。

ロータリー卓話24 3/13

 さて、戦国時代です。この時代は、日本の歴史の中で、最も面白い時代であり、最も異色の時代であったと言えます。この時代精神を一言で言えば、合理主義の時代です。特に、戦国最盛期の、信玄、謙信、信長などは、その典型です。
 信玄は、「城は人なり」という名言通り、壮麗な城を作らず、初期の清洲城のような屋形程度の砦に居住し、もっぱら金銭を殖産興業に費やしました。一般に戦国時代は戦乱が相次ぎ、田畑は焼かれ、農地は踏み潰されたと思いがちですが、戦国時代を通じて、生産力は飛躍的に伸びています。それが、江戸初期の安定に繋がったのです。理由は、戦国大名が、領国経営につとめ、新田開発や河川の整備に投資し、財力を蓄え、武力を充実しようとしたからです。
 謙信は、違った意味の合理主義者です。この人は、元来の自分のテリトリーを超えて他領を征服しようということを考えず、助けを求められれば兵を差し向けて勝利し、敵が降伏すればこれを許し、また刃向かえば戦って勝ち、降伏すればまた許し、ということを繰り返して、一度も負けなかったと言います。戦術の天才であったのです。いまの日本と同じ専守防衛の先駆けであったのでしょう。
 信長は、最初に鉄砲隊を組織し、兵農分離を行い、戦闘専門の兵士を養成し、軍団の編成を行いました。征服した敵の領地での兵士による強奪を禁止し、近代的な軍隊を作りました。戦前の中国で物資の現地強奪をした日本軍や、占領地で住民を奴隷化したISの軍隊よりも近代的でした。
 当時の武士は、主君が暗愚であるとみるや、浪人して新しい主君を探し、主君が討ち死にすると、たとえ敵方でも、強い主君であれば仕官をしました。要するに、終身雇用ではなく、人材派遣のようなものです。森蘭丸を打ち取った安田作兵衛は、明智光秀の死後、蘭丸の兄の森長可に使えています。忠義などという古臭い考えは、なかったのです。
 

ロータリー卓話25 3/20

 豊臣秀吉は、どんな人物だったのでしょう?墨俣の一夜城とか手槍隊を長槍隊で打ち負かしたといった話からすると、頓知のきいた人物であったようです。また、中国攻めの時、安国寺恵瓊が秀吉のことを「人たらしの天才」と評しています。ことば巧みに人の心を掴む天才であったと言えましょう。軍略では、秀吉はしばしば調略、すなわち敵方の一部を寝返らせることに成功しています。これが、人たらしの所以でしょう。戦術では、常に良い軍師の力に頼っています。そして、なるべく激しい戦闘を行わずに、数の力で屈服させる手法を好んでいます。
 信長は、軍師をおかず、何事も一人で決定し、戦闘では、先頭に立って奮戦し、刃向かった敵を徹底的に潰すことを習いとしました。それによって守旧派の諸勢力が力を失っていったのです。
 秀吉の大坂築城と朝鮮出兵は、信長のアイデアの単なる模倣です。模倣ですから、その考えの持つ本質的な意味がわかっておらず、結局、長期の豊臣政権を作ることができなかったのです。
 18世紀に西洋で始まった近代化以前の世界は、生産力が限られていました。そこで、異なった文明や出自の人々が出会う時、戦争か交易により、富を豊富化することが目的とされました。信長は、富を増やすためには、戦争よりも交易が有効であることがわかっていました。おそらく、信長が、光秀に打たれず、長期政権を樹立したならば、武力を維持しながら、世界に、交易による発展を求めて進出したでしょう。日本は、アジアの植民地宗主大国となっていたかもしれません。
 

ロータリー卓話26 3/27

 徳川家康は、極めて実直な、地に足のついた、農夫的な性格の持ち主であったと思われます。信長と織徳同盟を結ぶと、信長の死の時まで忠実に守り、信長に、長男信康の武田方への誼を疑われたら、これを自死させました。豊臣秀吉にも、長期の交渉ののち、仮初めの臣従をして、自己の勢力を維持し、関ヶ原の戦いに乗じて実権を握り、最後に徳川幕府を開き、長期政権を作りました。75歳の長命を保ち、じりじりと少しずつ力を蓄えていったのです。政策的には、農本主義、身分制の社会を作り、鎖国を行い、農業中心の守旧的、循環型の安定した社会を目指したのです。
 秀吉の太閤検地と刀狩は、このような安定した身分制社会の土台を作りました。秀吉と家康は、同じ発想で日本を治めようとしました。信長と正反対であったと思います。信長が撤廃した関所や税金を家康は復活させましたが、信長が育てた自由経済に基づく商業の発展は、260年かけて農本主義の江戸幕府を崩壊に導きます。
 また、都市のエネルギー源としての森を考えてみれば、関西の森林は度重なる戦乱による都市の消失と復興により、消費され尽くしていました。秀吉によって関東へ移転させられた家康は、手付かずの大森林と利根川水系を背後にもつ江戸を見て、日本の中心を関東へ移すことを決定したと思われます。
 
 

ロータリー卓話27 4/03

 皆さんは系図屋というビジネスをご存知でしょうか?先祖の系図をでっち上げる商売です。この系図屋が大流行りした時期が、日本の歴史上、2回あります。それは、江戸の初期と明治の初期です。江戸初期には、戦国時代の下克上で、成り上がった侍の人々が、立派な先祖があることにして、自己満足したのです。戦国時代の破壊で、ほとんどの文書は焼かれてしまい、存続したのは、一部の戦災を免れた公家や寺社のものだけでした。そこで、戦国以前の様々な偽の系図が作られました。私の家の系図も、江戸時代の初めからははっきりしていますが、それ以前は、伝承でしかありません。
 明治の初めには、いわゆる勤皇諸藩の志士たちが、政府の要職につきました。そこで、自分が田舎侍ではなく、由緒正しい家柄であることを誇るために、様々な偽系図が作られました。
 ある高名な文献歴史学者が、古代の朝廷の職務名称に関する論文を書き、学会で賞賛されましたが、後日、その論文の根拠となった家系図が偽物であることが無名の郷土史家により立証されてしまい、論文は無価値なものとなりました。私が発見したのです。しかし、それぞれの学者の立ち位置があまりにも違いすぎるので、このことは一般化されていません。そのままとなっています。

 

ロータリー卓話28 4/10

 昔の日本史では、江戸時代の三代改革として、徳川吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革が有名でした。これらの改革は、一部、新田開発や商品作物の奨励など、殖産興業に繋がるものもありましたが、全て、基本は、質素倹約という、農業を基本とする循環型社会を再生しようという試みでした。従って、次第に発展する商業経済に押され、後になるほど、結果が伴わず、最後は、貧乏侍と富裕な商人たちという構図ができ、外圧のもとに明治維新と開国につながるわけです。
 これに対し、将軍家老中の田沼意次と尾張藩6代の徳川宗春は、それぞれ、重商主義、規制緩和の商業経済重視の政策を取り、江戸時代に先進的な政策を行った二大人物として、最近の日本史では、評価が高まっています。
明治維新を成し遂げた薩摩と長州両藩は、ともに商業重視の政策を行い、財政を豊かにして、江戸幕府を倒しました。農業から商業へという歴史の流れに、逆らえないということです。
 近年、環境問題や資源問題の深刻化を受けて、節約志向の循環型経済社会への移行を主張する人々がいます。江戸時代の改革と同じ間違いを起こすことを自覚していません。第一、一旦得た便利で快適な生活を人々が簡単に手放すことはあり得ません。
 実は、この環境と資源の問題の解決の糸口はもう見えています。それは、人口の自然減少です。3月31日の中日新聞のトップは、日本の人口が27年後に2千万人減少するというものでした。このように、近代化された先進国社会は、一様に人口が減少に向かいます。人口爆発の問題は、地球の全ての地域を先進国化することによって回避されるのです。このことは、社会学では理論化されていますが、決して一般的ではありません。そこで、戦争が必要であるとか、後進国を発展させないとか、循環型社会を目指そうとか、馬鹿げた議論が繰り返されています。嘆かわしいことです。
 

ロータリー卓話29 4/17

 幕末の、風雲急な世情の中で、優秀な人物は、次々と暗殺されて行きました。明治維新の折に生き残っていたのは、まだ若い、大して優秀でもない人物たちでした。幕府方には、優秀な人物がいたのですが、多くは、新政府に仕えることを潔しとしませんでした。薩長両藩の侍たちが中心の新政府は、当初は、岩倉具視という老獪な公家により牛耳られましたが、西郷隆盛が西南戦争で死に、大久保利通が暗殺されたあとは、伊東博文、山縣有朋といった長州藩の下級武士の手に委ねられました。以後、現在に至るまで、長州、すなわち山口県出身の総理大臣は、八人います。他県に比較し、圧倒的に多いのです。
 これに対し、初代の警視総監は、薩摩藩出身である川路利良でした。その後6代目の警視総監まで、薩摩出身でした。7代目は、土佐の田中光顕です。日本の政府の中での法務、警察官僚の独立は、この薩摩と長州の軋轢から生まれています。
 現在の安倍政権は、長州閥です。官邸に人事権を握られた官僚の中で、検察だけが、忖度せずに正義を貫こうとしています。これも明治以来の伝統かもしれません。

ロータリー卓話30 4/24

 江戸時代は農本主義ですから、土地が相続の最も大切な対象となります。これを現代のような均分相続で相続すれば、すぐに農家として自立できなくなります。そこで、単独相続、長男が全てを相続するというのが普通でした。
 地方によっては、末子相続、すなわち一番下の弟が全てを受け継ぐといったところもありました。これは、最も古い形態、古代に海人族と呼ばれた海洋民族の時代から続いた風習でしょう。つまり相続に関する法律はなかったのです。
 武士の場合も、同様に、長男が相続をしました。これは儒教の影響と農本主義の結果です。
 農家も、武家も、そして商家も、同じでした。しかし、裕福なところは、次男や三男に資産を分け、分家を作りました。農家なら土地、武家なら領地、商家なら暖簾を分けたのです。
 では、娘はどうなったのでしょう。嫁に行くのが基本です。できない場合は行かず後家として長男の家に一生暮らすことになります。農村では、よくこのような女性に若者が夜這いを仕掛け、子供が生まれました。子は村の宝として全ての村人が子供達の世話をしたのは、父親がわからない子もあったからです。
 次男や三男は養子になりました。養子になれない場合は、都会へ出て、職人や僧侶や医師など、専門職に弟子入りしました。寺に住み込み、小僧となって、立派な僧侶になる人も出てきます。寺は、檀家制度や荘園によって経済的に保障されていましたから、財力があり、そのような受け皿となれたのです。
 これらの制度の根幹は、家制度として、昭和20年の敗戦まで続いていました。全てを変えたのは、民法改正による均分相続です。核家族の進展とも相俟って現代の家庭に仏壇や神棚や座敷がないことの原因を作りました。

ロータリー卓話31 5/8

 比叡山や本願寺の仏教勢力と武家政権との対立は、戦国時代を通じて激しいものでした。
秀吉や家康がキリスト教の布教に恐怖を覚えたのは、その所為でもあったでしょう。江戸時代の始めまでに、仏教諸寺院の武装解除が進み、石山本願寺も東と西に分裂しました。残るキリスト教は、島原の乱で鎮圧され、邪宗門として江戸時代を通じて禁教となりました。
 これを徹底させるために、江戸幕府は、在地の仏教寺院に宗門改帳を作成させました。また、人別改帳を作らせ、人口調査に替えました。このような経緯で、人々の戸籍を寺が管理するという寺請制度が、江戸時代を通じて日本中に一般化されました。檀家制度の始まりです。人々の生死は檀那寺が過去帳として把握し、旅行や移転なども寺から寺を通じて把握されました。葬儀は寺が行うようになり、収入は安定しました。
 平安末から中世の本地垂迹説、つまり、日本の神は特定の仏の化身であるという説やその逆の反本地垂迹説によって、当時は、神仏習合でした。大きな神社には神官がいましたが、その神宮寺の僧侶が別当として権力を持ちました。
 また、人々は、社会が安定し、旅行を楽しむことができるようになったので、参拝旅行をしました。各地の山岳が霊山として開かれ、富士講や御嶽講、吉野大峰講など、各地の修験道場への参拝が勧誘され、宿元を兼ねる御師や引率者である先達が布教し、修験は、江戸時代の最大の宗教勢力となりました。江戸後期には、お蔭参りと称して、伊勢参りなども盛んに行われるようになりました。

ロータリー卓話32 5/13

 農本主義の循環型社会を目指した江戸幕府でしたが、生産の多様化と豊富化に伴い、商業の発達は目を見張るものがありました。特に、太平洋の沿岸を運行した菱垣廻船や樽廻船、日本海沿岸を航行した北前船などにより、各地から大阪、京都へ物資が集積される一方、上方から消費地である江戸への海運が発達しました。
 これらの物資の代金決済の手段として、両替、手形、先物取引があり、関東は金、関西は銀が流通貨幣であり、両替商は大阪の金相場立会所で金銀銅の通貨調整を行なっていました。変動相場制です。
 農民は納税を米で行うので、各藩から大阪に集積された米は、蔵米となり、米問屋によって換金されました。コメも一つの貨幣でした。
 また、株仲間という企業独占の形式もありました。つまり、当時の世界で開発された金融の仕組みのほとんど全てが江戸時代にありました。唯一無いのは、銀行利息でした。お金を預けると逆に利息を取られたのです。
 日本は、明治になって、外来の金融制度を始めましたが、その仕組みは、日本人には手慣れたものであったはずです。
 また、金銀の換算率が世界とは異なっていて、日本は銀に対して金の価値が二分の一であったので、幕末から明治にかけて、世界各国が銀を持ち込み、金を持ち出して行きました。彼らの目には、日本は、黄金の国と映ったのかもしれません。

ロータリー卓話33 5/22

 さて、幕末です。幕末といえば、西郷隆盛、坂本龍馬、桂小五郎といった志士や、幕府方の新撰組や勝海舟といった人々が目につきます。
 しかし、当時の日本にあって、最も進歩的な思想を持っていたのは、赤松小三郎であると思われます。彼は、信州上田藩の砲術家、兵学者でありましたが、オランダ語、英語に堪能で、様々な文献を読み漁り、当時の世界の最新の思想を持っていました。慶応2年に「英国歩兵練法」を翻訳し、薩摩藩から懇願され、京都薩摩藩邸で、兵学塾を開き、薩摩、肥後、会津、越前、大垣各藩の門人を広く教えました。
 越前藩主松平春嶽へ提出した建白書には、二院制の普通選挙による議会を国権の最高機関とし議員内閣制により政治を行うこと、各地に大学を設置し全国民への教育機会を提供すること、すべての人民を平等に扱い個性を尊重すること、農民に対する重税を軽減し他の職種にも公平に課税すること、金貨・銀貨を国際的なレートに従って改鋳し、物品の製造にあわせ通貨供給量の拡大を計ること、最新鋭の兵器を備えた上、必要最小限の兵力で陸軍と海軍を置くこと、軍人は庶民からも養成すること、西洋から顧問を迎え入れ各地に諸物製造所を設け産業を振興すること、肉食を奨励し日本人の体格を改善すること、家畜も品種改良すること、などが建白されています。
 彼は、会津と薩摩が合同して長州征伐を行う頃に活躍したので、幕府と薩摩の合体政府を構想していました。公武合体です。しかし、薩摩が長州と組んで、無理やり倒幕に舵を切ったために、慶応3年に36歳で暗殺されてしまいました。実行犯は、薩摩の中村半次郎です。西郷隆盛の指令でしょう。坂本龍馬の船中八策は、当時の思想としては目新しくはなかったのですが、誰でも大統領になれるという民主的な共和制を構想し、公武合体を企てていた点では、赤松と同じです。龍馬の暗殺も、西郷の指令であったかもしれません。

ロータリー卓話34 5/29

 明治の気風を一言で言えば、溌剌、清新でありましょう。それは、日本の近代化を遮二無二推進した時代と言えます。それまでの、前近代の特徴とも言うべき迷信的な世界観と慣習を打ち壊して、近代合理主義的な考え方を生活の基礎とすることが大事でした。
 また、明治は、それまでの地方分権型の幕藩体制と異なり、統一国家としての日本を作り上げることが特に必要とされた時代でした。従って国民に意識統一のためのシンボルを提供すると共にその教育を行うことが何よりも必要でした。そのために、天皇を日本の伝統的権威とし、国家神道と教育勅語により全国民の教化を行なったのです。信教の自由は文明国家として必要であったので、神社は宗教より外され、国の儀式として国民の参加が強制されました。
 大日本帝国憲法は、立憲君主制の体裁を取りましたが、第1条の「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」、第3条の「天皇は神聖にして犯すべからず」とあるのは、神話に由来する歴史的伝統に依拠して支配の構成原理を示しているといえます。従って、それは、国家を即自的に与えられた共同体として国民に受け入れさせるものであり、民主主義の原理からは全く離れたものでした。
 このため、必然的に、一部の人間による専制政治が可能とされていて、これが、1945年の未曾有の敗戦に繋がったのです。
 関ヶ原の恨みが、薩摩と長州を武力倒幕に導いたように、薩長の攘夷が敗北した恨みが、日本を大東亜戦争という欧米相手の戦争に導いたとも言えます。
 現在の安倍政権を支える思想家たちは、すべて生長の家創始者の谷口雅春氏に深く傾倒する人々であり、谷口師に倣って、欧米と再び戦い、日本が世界を統一することを夢見ている人々であり、そのための憲法改正であり、緊急事態条項です。特定秘密保護法と共謀罪と緊急事態法は独裁のための3点セットです。敗戦の恨みが明日の日本を動かそうとしています。気をつけねばなりません。
 
 
 ロータリー卓話35 6/12

 最後に、現代という時代を考えて見ます。人類の歴史の分岐点は、18世紀から20世紀に至り、現在も続いている近代化でしょう。それまでの人類は、豊かになるために、交易と戦争を繰り返していました。しかし、科学技術の発達に伴う生産の飛躍的な増加と、それに伴う社会のグローバル化は、物を奪うための戦争を不要なものとしました。現在の戦争は、前近代的な価値観を持つ地域での戦争、あるいは、軍需産業の策謀による戦争のいずれかです。これは、全ての地域の近代化と、国際的に軍需産業を規制することによってなくなっていくでしょう。
 二つの世界大戦、そして冷戦は、全て、民主主義側の勝利に終わりました。これは、人間の社会は、一部の優越者による独裁制、国家主義や共産主義ではなく、平等な個人の自由な活動に基づく、民主主義や市場経済を基本とする社会が最善のものであることを示しています。今後は、この社会構造に基づき、問題点を調整することによって、より望ましい社会が実現していくでしょう。
 近代化がもたらした人口の爆発的な増加は、先進国地域での明らかな人口減少が示す通り、世界の全ての地域の近代化によって解決されるでしょう。それまで、人類が、持続的な開発を続けることができるかどうかは、科学技術の発達にかかっています。

 以上で、私の卓話を終了します。お聞きいただき、どうもありがとうございました。

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