宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

幸福感と豊かさ

2017年9月17日   投稿者:宮司

 いささか旧聞に属するが、2012年にアメリカで製作された「Happy」という映画がある。多くの国際映画賞を受賞し、今尚、世界各地で自主上映が行われている。この映画は、文字どおり、人間にとっての幸福感の実態を追求した映画である。アメリカ合衆国は、第二次大戦後、国民の平均的な幸福感は上昇したが、ある時期に頭打ちとなり、映画製作時点では、世界で二十三番目となっていた。また、日本は、先進国では、最も幸福感が弱い国であった。この映画では、人間の幸福感を示す物理的な兆候として、特定のホルモンが体内に分泌されることが、医学者により発見されたことを利用して、それぞれ人々の幸福感を測定している。

それによれば、人間が幸福感を得ることのできる条件は、以下のいずれかとなる。
1、 自分の仕事が、人々の役に立ち、人々に幸福感をもたらしているという自覚が生じるとき。
2、 自分が信頼できる家族や友人たちと一緒にいると感じる時。
3、 自分が、自然との共生の感覚の中で生きていることを実感できるとき。
 つまり、人間は、人々や自然との間に精神的な繋がりを深く持ったと自覚した時に、幸福感が湧き出てくるということだ。つまり、全人格的な信頼と友情や愛情で結ばれた人間関係や、自然との共生感覚が幸福感をもたらすのだ。これは、前近代の人間の生き方に強く関係している。

 人類の近代化は、14世紀あたりの西欧を起源として、18世紀から20世紀にかけて本格化し、今尚、世界中で継続的に行われている。すでに近代化が成し遂げられた地域は、グローバル化を進展させることにより、跛行的ではあるが、残りの地域の近代化を手助けしている。ここでいう近代化とは、政治的には、個人を基礎とする民主主義の発達、経済的には、やはり個人を基礎とする資本主義市場経済の発達を両輪とする社会変化を指す。
 近代化は人類に何をもたらしたか?一言で言えば、前例のない豊かさだ。過去、人類は、ものの奪い合いのために数多くの戦争を経験した。生産力が限られている条件では、ものを奪うことが物質的繁栄への近道であったからだ。しかし、近代化は、合理的な社会資本の整備と交通と分業のグローバルなリンクの実現が、際限のない物質の豊かな生産を可能とすることを人類に示すことになった。もはや奪うための戦争は不要となった。もちろん、資源の枯渇やエネルギーの問題や環境の悪化は、地球規模の問題であるが、科学技術で解決可能な課題であるように思われる。

 近代化を推し進めたのは、啓蒙思想が生み出した、個人の人権を政治的に最上位のものとする思想であり、やはり個人の経済行為を経済システムの核とする市場社会と、科学技術の発展がもたらした生産性豊かな資本主義である。これらは、時折、その異端として共産主義や権威主義の政治形態のもとでの独自の経済社会を生み出したが、いずれも時の流れとともに破綻し、現在は、民主主義と資本主義が世界の共通価値となっていることは明らかである。例えば現在の中国は、権威主義のもとでの資本主義経済を実行しているが、これもいずれは破綻するであろう。アングロサクソン型の国々は、行き過ぎた経済自由主義のもとで、政治的な民主主義の弱者擁護を損なおうとしているが、これもいずれは是正されざるを得ないであろう。

 近代化の過程での様々な矛盾点は、このように是正されていくが、近代化の中で失われた前近代の価値は、自律的な回復が難しいと考えられる。なぜなら、近代化の要点は、物質的豊かさの追求であり、生活の中での物質的豊かさの追求は、そのまま、精神的な豊かさへの配慮の欠如を結果するからである。さらに、近代社会の個人は、常に欲望を刺激され、達成目標を与えられ、不安を煽られ、競争の只中に生きている。
 人間関係は、根本的には、全人格的で信頼と愛情で結ばれた、幸福感の源泉となる共同体的なものから、特定の目的のもとで人々が組織される機能的なものへと変化し、人々の人格は分裂し、孤独なものとなる。家族は解体され、核家族から、ついには、一人暮らしの人々の群れが現れることになる。
 このような共同体の崩壊は、逆に、政治主体の共同体志向ともいうべき擬似共同体的な国家や集団を生み出す契機となり、このようにして生まれた反近代の集団は、近代社会の大きな障害となる。共産主義や、カルト宗教や宗教原理主義のテロ集団や、学生運動など、種類も規模も広範囲にわたる。

 本ブログ中の「前近代と近代ー社会意識の変容」の中で述べたように、社会集団の類型は四つある。家族や村などの天与の基礎共同体、意思を持って全人格的な信頼と友情で結ばれる意思共同体、特定の目的で結ばれる機能集団、人格的な関係も機能的な関係もなく、ただそこに寄り集まっただけの集列集団である。これらの社会集団は、人類史の初期から今日に至るまで、常に存在していたが、近代化とともに、幸福感をもたらす共同体の喪失と機能集団、集列集団の増加が際立ってきて、人間精神の社会病理化が進んだのである。したがって、近代化が極端に進んだ社会では、いかに足掻こうとも幸福感は得られないということになる。

 幸福感を回復するには、まさしく、本来の意味での共同体を社会の各所に作り出し、人間精神を安定させる拠り所を作るということに尽きる。近代社会では、一旦崩壊してしまった基礎共同体の復権は難しいので、新しい意思共同体を様々な形で作ることが模索されなければならない。それは、単なる友人グループにとどまらず、伝統文化の維持を目的とするような機能集団の意思共同体への転化や、互いの意思で結びつく新しい家族形態や、各種の生活共同体など、様々でありうる。また、自然との共生感覚を作り出すために、生活の二重化、都市と田舎の生活の複合を考えることも良い手立てとなろう。
 最も危険なのは、政治指導者などが、法律や命令で意図的に共同体を作らせようとして、擬似共同体を作り、それが全体主義に転化し、近代社会のアンチテーゼとなって、戦端を開いてしまうことである。人類は、過去、度重ねてこの間違いを演じてきたことを肝に銘じる必要がある。
 私たちが、明確な意思を持たなければ、真の民主主義社会が実現しないのと同様に、私たち自身が意思を持って幸福感を追求しない限り、幸福な社会は得られないのである。
(2017/09/17)

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