宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

教育勅語と契約社会

2017年5月28日   投稿者:宮司

 森友問題や加計学園問題への安倍政権の対応は、興味深い。次々と新証拠や文書資料が出てくるたびに、それは捏造であるとか、怪文書であると言い、その正当性を認めず、言い逃れを図る。それを異様なものと見る人々は多い。

 しかし、少し見方を変えてみると、この対応はなるほどと思われる。彼らの賞賛する教育勅語には、どのように書かれているか?教育勅語を支持する人々は、「親に孝養をつくしましょう。兄弟・姉妹は仲良くしましょう。夫婦はいつも仲むつまじくしましょう。友達はお互いに信じ合って付き合いましょう。」、これのどこが悪いのか?と主張することが多い。もちろんそのあとに、「広く全ての人に愛の手を差し伸べましょう。法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう。」といった項目もあるが、主に、最初の4つが強調される。なお、これらは、明治神宮の国民道徳協会訳文の解説から借用している。
 これでお分かりであろう。総理夫婦は、互いに助け合っている。お友達内閣の面々は、互いに信じ合ってかばい合っている。官僚の中でも、その仲間に入りたい人々は、これに同調している。森友や加計学園の事件は、友達を大切にするために行った正当な行為なのだから、彼らは結束して、法治社会という世間の荒波に耐えているのだ。籠池夫婦は残念ながら救えなかった。そうしたら世間に寝返ってしまった。
 「コンプライアンス(法令遵守)」という言葉が、日本の社会から消えて久しい。教育勅語の世界は儒教道徳の世界であり、社会契約に基づく法治社会とは決して馴染まない。法律を無視して友達を助ける世界は、見事に道徳的な世界なのだ。
 本ブログで、前近代の儒教道徳については、度重ねて詳細に論じてきた。さて、日本では、古来、社会という言葉はなかった。Societyの訳語として明治時代に作られた言葉だ。その代わりに世間があった。家族やその集合体としてのムラは、信頼と友情に満ちた仲間集団であり、その外は、冷たい風の吹く世間であった。仲間は結束して、世間の荒波に耐えていかねばならない。仲間内では、法律や規則は存在する必要はない。代わりに長幼の序や和の精神といった道徳があれば良い。これに対し、互いに信頼関係のない世間では、法律や規則といったものが要求される。 大切なものは仲間や身内であり、他人ではない。
 儒教は、政治の要諦として、「修身斉家治国平天下」と説いた。これは一見もっともな教えのようだが、裏を返して見ると、現実には、自分や身内の利益を最優先とする人々が普通であったことを意味する。儒教は、古代に日本に入ってから、幕末に至るまで、日本人の道徳の基準であった。その期間、蘇我氏や藤原氏、北条氏や足利氏、徳川氏が、如何に政権の中に身内を取り込んだかを考えてみれば、容易に理解されることだ。
 儒教道徳の世界を色濃く残しているのは、ヤクザの世界だ。組を守り、仁義を重んじ、兄弟の契りを大切にし、親(分)の言うことには決して逆らわない。一宿一飯の恩義は必ず返す。そのためには、平気で法律を破る。荒波を乗り切るために、コネを使い、賄賂を使い、脅迫を行い、人々を騙す。全てが正当化されるのだ。

 明治になり、初めて欧米の思想が日本に入った。フランス革命を通じて具現化された社会契約の思想は、中江兆民により「民約論」として翻訳された。社会契約の根幹は、社会とは、身内と他人の区別なく、社会を構成するすべての個人を基礎として、その総意により法律を作り、社会の秩序を維持しようとする考え方である。これを導く前提として、人間の自然権という概念が導入されるが、これは人々を究極の争いに導くものではなく、すべての個人に平等な基本的人権という考えを導くためのものだ。このようにして、政府の権力をも法律で縛る立憲主義の法治国家が成立する。
 これに対し、国家を所与のものとして国民に理解させようとした明治政府は、儒教に基づく、天皇を中心とする家族国家の論理と道徳を実質としながら、西欧的な立憲主義の化粧を施した明治憲法を立案し、大日本帝国を構築した。
 一方、富国強兵のために、権威主義に基づく資本の蓄積と工業化を進めたために、初期資本主義社会の政治的矛盾は、全体主義の社会改革運動を誘発し、左右両極の激烈な対立を生み、民主主義は片隅に追いやられてしまった。共産主義者も2.26の青年将校も、同じ穴のムジナであったことに誰も気がつかなかった。

 民主主義は、第二次大戦の敗北ののち、初めて、日本の政治の主要な体制として、米国から与えられた。冷戦を通じて、日本は自由と資本主義のショーウィンドーとして経済の発展を保証され、1960年代に至り、近代的な資本主義社会を実現した。
 資本主義の社会は、個人の経済行為を基礎とした契約社会である。生産、流通、販売、あらゆる面で契約が必要となる。個人を基礎とした契約が基本であるという意味では、民主主義と同根である。すなわち、近代社会とは、契約社会なのだ。
 そこでは、他人と身内の区別なく、人は同列で扱われる。法は平等に適用される。家族や友人といった小集団の共同体、法律の介在しない信頼と愛情に満ちた関係は、相変わらず社会の基礎として残っているが、社会の主要な部分は契約とルールに縛られた無機質なものとなる。人々は孤独化し、個人を単位とする契約と競争の社会に馴染めない人々はドロップアウトしていく。

 現在の日本は、近代の息苦しさに耐えられなくなった人々が起こした反乱の中にあるように見える。教育勅語や國体の世界を再生することは、近代社会の否定につながり、世界の近代化の流れから離反することとなる。多分、本質的には、日本人にとって、民主主義と資本主義は欧米から与えられたもので、自分自身で掴み取ったものでないが故に、多くの人々はその根幹を理解し得ていないのであろう。それほど重大な意味を持っているとは知らずに、この反近代という流れに乗っている。安倍政権はそのような人々に支えられていると考えて良い。日本は、法治より道徳が優先される社会に戻りつつある。
 現代の日本で、経済社会を支えている、いわゆる勝ち組の人々は、この事実に早く気がつかなければならない。アベノミクスで、株価や大企業の利益が増進していることを理由に、この流れに目を瞑っていれば、遠からず、近代社会の基本である民主主義と資本主義を捨てて世界の孤児となった日本に唖然とし、呆然と立ちすくむことになるであろう。
                                            (2017/05/28)

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