宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

神道政治連盟の憲法改正運動

2015年11月3日   投稿者:宮司

神道政治連盟の憲法改正運動

 神社界に身を置くものの一人として、最近の憲法改正運動の高まりは気になるところである。

 日本会議という組織が、中核となって進めているが、その中の最大の勢力が神社本庁の裏組織ともいうべき神道政治連盟であるからだ。そこで、神道政治連盟の憲法改正運動について私見を述べる。

 時代が急激に変化する今日、日本国憲法がいかに優れていようとも、70年間不変のものを時代に合わせて変化させていくことは望ましい。従って、改正憲法は、今日の世界の状況に即応し、また、未来を見つめる発展性を持ったものとなるべきである。

 では、現代は、どのような時代か? 

 人類は、有史以来数千年の長きにわたり、自分たちの社会をどのように組織するべきかを模索してきた。この歴史を大きく転換させたのは、18世紀から20世紀にかけての近代化の過程である。これは西欧から始まり、米国で花開き、さらに日本に至り、少しの時間差はあったにせよ、今では、ロシア、中国というかつての共産主義の諸国をも含む先進国乃至は先進国に準ずる諸国で進んでいる。いわゆるG20といわれる国々である。もちろん、おなじ一国でも地域差があり、先進国の間にも格差はある。しかし、この近代化の過程の中で、人類の生活様式は、特に都会において一様に激変した。

 前近代に於いては、戦争は物資の不足を補う手段として遂行された。あるいは物資の略奪の手段として遂行された。人間は、その生活のために様々な物資を必要とする。それを大量に安定して供給する術がない場合、戦争が行われた。古代において、最大の戦争行為の原因は、民族移動であるが、これも、環境の悪化により、より住みやすい場所を求めて集団が移動するのであり、より良い生活を得るための手段であった。
 
 しかし、近代化の達成は、その意味での戦争を不要なものとした。交通と分業の発達と自由貿易体制の整備は、技術、資本、原料、エネルギー、人材等の生産に必要な資材の世界的な流通を担保し、大量生産と大量消費の社会を作り出した。かっては住みにくい地域でも、道路や水道などの社会資本の整備と、空調システムの開発により、快適な生活環境が約束されるようになった。まだその恩恵に預かれない地域が存在し、また、環境への負荷やエネルギー枯渇への不安があるとはいえ、世界は次第に、物質面での渇望を暴力によって解決することの無意味さを理解するようになった。従って、開かれた自由貿易体制とそれを政治的に保証する民主主義制度、自由主義の理念こそ、現代に人類が持ち得た最良の社会制度であると考えられる。そしてそれらの結論として人権が平等に尊重されるということが何よりも重要である。

 ところで、このような近代化は、一方で、前近代社会に特徴的な共同体的な意識を、社会を構成する諸個人から奪い、意識の個人化を促し、利己的な行動に向かわせ、アトム化した個人の群れを作り出した。しかし、人間は、本来、家族を基礎単位とする共同体的な関係の中で存在するものであるがゆえに、近代化が進めば進むほど、一方で、前近代的な関係性に基づく社会を構成しようとする反近代の運動が起こり、それは近代化の過程の中で、度々の反乱や戦争を生み出したのである。

 このような反近代の動きは、ナチス、日本の国家主義やソ連、中国等の共産主義を嚆矢として、日本の全共闘、米国のヒッピーやフラワーチルドレン、フランスやドイツの学生運動、オウム真理教等のカルト教団、イスラムやユダヤの原理主義などすべてがそうである。このような運動に共通するのは、「立派なリーダーのもとに良い心を持った人々が結集して、良い社会を作る。」ということである。これは、一見良い指導方針のようにみえるが、実は、民主主義とは相容れないものだ。

 民主主義の根本の前提は、人間を信用しないということである。トマス・ホッブスはいう。「万人の万人に対する戦争」と。個人の自由権を最大限に認めれば、こういうことになる。このお互いに殺しあう社会を安定させるために、社会契約を結び、ルールを作り、法律で自由権の一部を規制し、そして違反者を警察力という公の暴力装置で取り締まるのである。政治を司る人々は、選挙により民意を反映して選出されるが、常にその行動をチェックされ、いつでも法的に間違った行動に出れば更迭される。トマス・ジェファーソンは「自由な政府(民主主義)は信頼ではなく猜疑に基づく」という。これは、資本主義と相通じている。資本主義の経済学の上の人間は、常に利己的に行動する。それが大前提である。人間は、利己的で猜疑深くあらねばならない。これが結論である。

 従って共同体のように、互いに相手を思いやって、愛情と信頼で結ばれることは、民主主義では悪である。人類は、前近代的な共同体を分解して、民主主義と個人の自由を尊重する社会をこのようにして組み立てたのだ。

 もちろん、このことは、人間がその基礎的な部分で共同体的な人間関係を作り上げることを否定するものではない。互いの相手が見える範囲の社会集団では、家族的な友情と信頼に満ちた人間関係が存在しなければならない。すなわち、人間は、その社会関係の持ち方を二重構造としなければならない。

 神政連は、神社本庁はそのことがわかっているのだろうか?到底そのようには思えない。教育勅語も、上述の視点から見れば、家族とか友人といった小さな社会を作る上では良い指針となるが、これを国家、国民の指針とすれば、それは権威主義、全体主義という反近代的、反民主的な国家社会を用意する標語となる。

 神社界は日本の伝統を大切にするという。はたしてそうか?神社界にとって大切な伝統とは、明治の時代の気構えや雰囲気ではないか?明治とは、日本が伝統を捨てて、押し寄せてくる西洋列強に追いつくために、表面的な近代化を遮二無二推し進めようとした時代である。当時の西洋列強は、民主主義も成熟しておらず、軍事力による植民地の獲得と経済的略取に突進していた時代である。従って日本もその様子を目の当たりにして、国民が総動員で富国強兵に向かった時代が明治であった。すなわち権威主義、全体主義につながる反近代の思想を内包しながら、一神教的な結束の元に、技術や財貨の獲得に向かったのである。戦前の日本では、インテリ層に共産主義の理論がもてはやされた。これは、資本の蓄積や工業化を政府の手で進めるために有効であったからだ。共産主義を天皇主義と頭を変えれば、そのまま国家社会主義となる。転向組が多かったのはそのせいである。現今の日本会議や神道界に転向組が多いのも同根である。すなわち、国家主義と共産主義とは同類であり、近親憎悪の関係にある、キリスト教とイスラム教のようなものだ。なぜそうなったのか?それは、明治政府が、西欧の技術は欲したが、その個人主義や民主主義といった理念が日本に広まることを恐れ、神社を国家の宗祀とする制度と教育勅語により、天皇を中心とする家族主義的権威主義的な国体の創設を目指したからだ。

 本来の日本の伝統は、多神教であることから生ずる多様な価値観を有し、異質なものを受容し、共存していくものであり、柔軟な感性を持っている。これに対し、神社本庁は、神職となったものに仏壇の放棄を迫り、誓いを立てさせ、天皇への敬愛を強制する。これは一神教と異なるところはない。神道こそが多様な宗教の共存を主張できる柔軟な宗教であるのに、その本質を損なっている。なぜか?一つ思い当たるのは、戦後神社本庁を作った人々のほとんどが、明治以降に神職となった人々の子孫であったことだ。であるからこそ、彼らの伝統は明治から始まるのであろうと推察される。これに対し、皇室はどうか?皇室は遥か古代から儒教や道教といった外来の宗教を文化として受け入れ、その後伝来した仏教も受け入れ、さらには明治以降に公認されたキリスト教をも受け入れている。日本の在家が、神道、仏教、道教、儒教、キリスト教を受容していることと同じである。神職と一部のカルト信者だけが非日本的なのだ。

 ともかく、神政連の関係者が、現代の人類社会が獲得した民主主義、市場経済、人権尊重という幾つかの重要な指標の意味を正確に捉えていなければ、その憲法改正の運動は、時代錯誤の方向を向いたものとなり、現代の平均的な知性を持った人々から見向きもされなくなるということだ。その事実を幾つか、神政連の憲法改正のパンフレット「誇りある日本をめざして」を参考にしながら、以下に列挙してみる。

改正のポイント01
我が国は有史以来万世一系の天皇を戴く「立憲君主国」です。という文章がある。万世一系は神話であるが、神道は宗教であるから、このように言って良い。しかし、立憲君主国となったのは最近のこと。法理論的には日本国憲法の成立以後である。ついでに言えば、現在、すべての先進国の君主も同様に立憲君主である。歴代の天皇が常に国民と共にあったという記述も真実とは矛盾するところがあるが、神道は天皇を大神主とする宗教であるからそう言って良い。ただし、これらは、特定の宗教の信仰から生まれた表現であるから、その限りで通用する。一般論として憲法に記す事柄ではない。すなわち、特定の宗教である神道家が信ずることを国柄として明記して良いわけがない。

改正のポイント02
天皇を元首と明記することは良い
一方、天皇を中心に国民が精神的に統合されているところに云々という記述がある。これは神道の信仰に関わることであるから、憲法に明記してはいけない。さらに言えば、このように国柄を説明することは、国を全体主義的な国家に導く、時代錯誤的な行為である。

改正のポイント03
20条第3項の削除は適切である。しかし、その説明が良くない。政教分離は西欧でのみ生じた国家と教会のテリトリーの不一致から生まれたものであるから、その経緯を説明し、国家権力と教会権力の分離の保証であることを説明すれば良い。

改正のポイント04
家族の尊重を条文とすることは良い。しかし、現代の家族は多様化している。レズやゲイといったホモセクシュアルのカップルも夫婦として認めていく、血縁のない人々が家族として共同生活を行う、それが現代である。その意味で、家族を理解しているのか?また、日本の伝統は夫婦別姓であり、子供を村中で育てるということは、通い婚の母系制社会の姿を示していることがわかっているのか?真に日本の伝統を理解し、現代の家族変容を理解してから、このような主張をなすべきであると考える。

改正のポイント05
軍隊は持って良い。しかし、その扱いは良く考えなければならない。
軍隊の意味の変化を考えてみよう。かつては、軍隊は自国の安全を保証する装置であった。しかし、今では、軍隊は、世界の秩序を担保する暴力装置としての機能を高めている。国連軍がその良い例である。昔のように戦争であれば何をしても良いという時代ではない。戦争にも国際的な規制がかかるようになった。将来的には、国家の中の警察力のように世界の治安の維持のために国連軍ないしはその代換のものが機能し、そこに自国の軍隊の一部を派遣することにより、自国の安全保証を担保するようになるであろう。国の安全保障は、軍隊よりも、資本や人材や技術や生産物の交換により、緊密な国際関係を結ぶことによってそれを保つことが重要な時代となっている。実際、先進国で軍事力の共同化が行われれば、一挙に世界連邦への道が開かれるであろう。そうであるならば、個別の軍事力こそが世界の平和的な共存を妨げている元凶と言える。つまり、これからの軍隊は、自国を守るというより世界を守るという意味の強いものとなるべきだ。それを見越した軍事力の規定が望ましい。もう独立国家を最上のものとする時代は終わっている。また、先進国間の戦争はありえない。これからは、反近代主義のテロリズムとの戦いとなる。

改正のポイント06
緊急事態の特別措置の規定の新設は良い。但し、法律化するに際し、人権への配慮が必要となる。個人の発言、行動の自由を妨げてはいけない。非常時には個人の自由や権利を制限することが当然のような説明はしてはいけない。それは全体主義である。

改正のポイント07
環境保全条項の規定の新設は良い。しかし説明を読むと、環境権を認めず、環境保全の義務と責任を国民だけに負わせるという記述となっている。これは良くない。国民がその責任を持つのは当然だが、国家がそれ以上に責任を持たなければならない。原発のような後世まで環境の甚だしい負荷を残すものは一刻も早く廃棄せねばならない。それを決めるのは国家だ。現状では、安倍政権は推進派であるので、国民は環境権の訴訟などで対応する必要がある。また、神社本庁は原発反対を明示すべきだ。この記述のままでは、国家が環境を汚染するのは野放しとし、国民に自然を汚すなといっているようなものだ。

改正のポイント08
憲法改正条件の緩和は良い。しかし、明治憲法の国民不在の改正条項を大いに参考とすべきと記載されるのはどうしたわけか? そのあとに、憲法は国民のものであり、国民の意思で改正すべきだと書いてあるではないか。 目を疑うような乱れた記述だ。

 以上、すべての記述に問題点がある。一言で言えば、国家を権威主義、全体主義に導こうとする意図が露わである。すなわち前近代的な、非民主的な国家への志向がはっきりしている。
 日本会議も時代錯誤なことを平気で発言する人々が前面に立っている。このような団体は、日本国を危うくする団体であると言える。これは単なる私見ではない。アメリカのリベラルな友人たちも、少し心配している。アメリカもときどきとんでもないことをする国だが、時期が来れば民主主義的に立ち直ってくる。日本人はそういう立ち直りができるのであろうか?
 最後に統一教会のことに触れておきたい。この団体は完全なカルト宗教である。そのように社会的な評価も定まっている。統一教会は、日本会議に入り込み、神政連が応援している政治家の何人かと密接な関係を持っている。意図は不気味だ。日本を全体主義化させて、アメリカと日本をもう一度戦わせ、焦土の日本を韓国からやってきて乗っ取るなどという荒唐無稽なことを考えているのではないか? 神社界は手を切った方が良い。   (2015年11月1日)

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