宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

現代産業社会における神道の可能性

2015年2月2日   投稿者:宮司

以下は、1985年の神社本庁教学研究大会において発表したものです。

いま、読み返してみれば、当時の日本型経営を、日本文化や神道と結びつけて、やや強引に解釈しています。これは、戦後の適度なインフレを伴った持続的な経済成長と、55年体制の中での政治的妥協の産物でした。アメリカが、日本を共産主義に対するショーウインドウとするために、経済成長を許したという状況も大きかったと思います。

日本は、冷戦の崩壊とともにデフレの安定期を迎え、名目賃金の低下は終身雇用を不可能にしました。その後、デフレ脱却を期して、小泉改革で規制緩和と非正規雇用を認め、安部改革で金融緩和と円安誘導、そして消費増税を行い、日本は貧富の差が激しいアメリカ型社会にますます近づいています。貧困層のためのセーフティネットはますます衰えていくのでしょうか?

また、本稿では、当時の神社本庁に、神道のより良き可能性を知ってもらおうと、随分無理なこじつけをしています。今から思えば、単に一神教ではだめです、多様性を認め合いましょうということですね。
(2015年)

現代産業社会における神道の可能性

最初に本発表の題名について、一言お話しておきます。現代産業社会と題しましたのは、二つの意味をもちます。第一に現代社会は欧米、日本のような高度工業国の社会から発展途上国にみられる前近代的な社会に至るまで、様々な種類を持っていますが、ここでは高度工業国における社会を対象にしているという点、第二にIndustrial Societyという概念は、例えば日本では既に60年代より使用されており、現代の社会はむしろPost Industrial Society又はInformation Oriented Societyという呼称が使われています。しかし本論では、人類史の展開における産業化の役割を重視し、今後も引き続き財貨のより効率的でより豊富な生産は主要な課題であるとの立場より,敢えて産業社会という概念を使用致しました。

さて、近年、日本の経済力の強さが世界的に認識されるとともに、その原因が研究され、取り分け日本的経営と称される日本独自の経営方式や労使関係の在り方が注目されてきました。これら日本的経営の発想の原点には古代より日本人の精神的土台となってきた神道が存在していると考えられます。

古来、日本人はムラ共同体という農村型社会を基盤として生活してきました。そこでの生産は稲作中心であり、この生産のためには、必然的に共同体内部の成員が互いに協力し合い助け合うことが必要となります。又、天候等自然の不可避的な力に大きく影響されます。さらに、定住型の農耕は、一年ごとの生産サイクルの繰り返しであり、これは自然に伝統を重んじ、祖先から親、子、孫への意志の伝達を重視するタテ型社会を生み出してきます。このような社会の中で神道は、自然崇拝と祖先崇拝を中心とする信仰として、発達してきました。

従って、日本人は、神道により、自然の威力への畏敬と、祖先への崇拝を学ぶとともに、祭祀における共同化を、神の守護の下での生産における共同化、さらには日常生活、政治の場面での共同化に結びつけることにより、現実社会の中で「和」をテーマとする共同的な人間関係を形成してきました。又、日本人は、古来、生産を神より与えられた神の行為、即ち、神聖な行為として考えてきました。これは、記、紀の記述や、祈年、新嘗の大祭の明らかに示すところです。稲作に限らず、総ての狩猟、漁労、商工業に携わる人々が、それぞれ神を祀り、神の加護と霊威のもとに、生産と日常生活を形造ってきたのが、日本の姿でありました。

近代の工業化の進展と共に、神と人との麗しい関係は暫し忘れ去られ、農村から創出された労働者たちは、使い捨て労働力として悲惨な工場労働に従事させられた一時期がありました。しかし、戦後の民主的な労使関係の成熟と、日本の社会構造の工業型社会への転換とともに、多くの日本人の生活は、都市中心、企業帰属のものとなり、過去、ムラ共同体において培われた生産に対する考え方と人間関係の在り方は、会社や工場の中へ持ち込まれてきたと考えます。即ち、会社内での家族共同体的な人間関係のとり方、生産への従事を、金銭を得るための労働力の提供とみるのではなく、それ自体目的的な行為として考え、且つ又、積極的に参加し、智慧を出し合い、品質と生産性を高めていく努力、これらはすべてムラ共同体の中で神道を通じて培われた、生産を聖なる共同行為とみる考えの反映であると思われます。通常、農業型社会より工業型社会への社会構造の変化は、具体的なゲマインシャフトとしてのムラ共同体を崩壊させますが、企業体にその心性が受け継がれており、それを可能ならしめているのが神道であると考えます。

論点を移します。

キリスト教の世界観は、唯一にして万能なる造物主ヤーヴェが世界を創造し、中でも人間は神の似姿としてつくられ、その他の自然に対し優位性を与えられており、神の定めた秩序のもとに世界は運行しているというものであります。ヨーロッパ中世は、現実世界の全てが神に包摂されていました。ルネサンスは、現実の人間と世界を神から解放し、宗教改革は世俗権力と結びついた教会権力を否定し、この時点より、キリスト教の世俗化が始まったわけです。

しかし一方、デカルトやガリレイにみられる科学的合理主義の成立は、世界の合理的存在構造を確証するものとしての絶対的なる神の存在をその核心に保持し続けたのです。この科学的合理主義は、一方で主観主義を生み出すとともに、主流としては神存在の裏返しとしての唯物論を生み出し、科学的世界観を形成しました。従って今日までの科学的合理主義は、経済体制としての共産主義、資本主義を問わず、共に一元的、先験的な世界合理性の存在確信を基盤としているわけです。これに対し、20世紀になって、量子力学の分野で解析手段としての数学の多元性が実証され、素粒子世界の不確定性が発見されるとともに、世界の相対的な存在構造が明らかにされました。

また、交通と分業の発達による世界史の進展は、さまざまな諸民族、諸文化、諸宗教、諸価値の出会いと、人類の世界的な相互依存を導き、西欧的な価値観が優れて正しいものであるとする観念を打ち破り、価値多元的な思考を現実化しました。

このような背景の中で、西欧知識人は、多元的、相対的である、表現を変えれば、人間と人間、人間と自然が関係性と融合の内に把握される東洋思想、特に、仏教や老荘思想に関心を示し、近年は、日本の神道に、より深い関心を示しています。

神道の国際性については、近年神青協も積極的な関心を持ち、海外宗教事情視察、国際宗教青年会議への出席などを行っております。昨年2月の中央研修会の1分科会は、「神道の固有性と国際性」のテーマで持たれ、私も助言者として参加しました。このような討論の場合、常に問題となるのは、天皇論の領域です。

古代、人間の共同生活が始まると同時に自然発生的に成立した共同体が神道の基盤であります。しかし、国家が現実社会の疎外態として制度的に存在するようになるとともに、神話を基礎とする観念的共同体としての国家が形成されてきました。天皇の政治的権力は、古代末期より形骸化されつつも、中世においてなお庶民の間に政治的権威を保持しましたが、近世の徳川支配の間に世俗権力から隔離され、国家共同体の観念も稀薄化しました。

しかし、儒学の大義名文論、国学の勃興などにより天皇の権威と国家共同体の理念が再発見され、明治維新の思想的原動力、中央集権国家創出のための政治イデオロギーとなり、政治的、制度的に現実化されたわけです。明治は、文明開化、四民平等、人材登用、議会政治の開始、産業資本の準備等開放的な諸政策が盛んに実行され、進取発展の空気の濃い溌剌とした時代でありましたが、一方政治イデオロギーとしての天皇制は、国家観と支配の原理に関する教条主義、儒教的封建道徳、画一的な保守主義を内在しており、最終的に日本社会の近代化のネックとなり、ファシズムを生み出していったのは明白な事実であります。

現代、最大の価値評価を受ける政治制度としての近代民主主義は、制度的にはチェックアンドバランス、即ち相監視機構の中で政治支配がなされ、政治権力の源泉はその社会を構成する人民の手にあり、従って、政治活動を始めとする諸種の自由が人々に保証されねばならず、これは、価値多元社会の存在を意味します。従って、今後日本が、民主主義を維持発展させようとするならば、政治イデオロギーとしての天皇制は、教条的世界観を有するが故に無価値なものです。理念レベルでは、人類共同体が構想される現在、天皇を中心とする国家共同体の理念は、種々の階梯を有する観念的共同体の一形態として、政治の領域ではなく、限られた信仰、乃至は文化伝統の領域で尊重されるべきものであり、それ自体を絶対的な共同体と見做すことは、神道の本質と対立するものであると考えます。

さて私は、第一に、現代の産業社会において、神道の、共同体を基礎とする信仰が、有用な社会機能を持つことを述べ、第二に、西欧的な発想が破綻し、神道を含む東洋思想に関心が持たれている事を述べ、第三に、天皇論は教条的枠組の中で語られるべきではない事を述べました。

ここで、第二と第三の論点の基本的前提であった神道の思想的本質たる相対性と多元性について述べ、それを展開してみます。

ご承知のように神道は、どの神をも絶対神と認めず、無限の神存在を認める汎神論的多神教であり、ここから直ちに、相対性と多元性が導かれます。また、祖先崇拝や自然崇拝は、現実生活に有用な社会機能をもたらすものであり、個人の精神的覚醒や、絶対的世界観(死後観を含む)への帰属を導くものでなく、それ故神道は、極めて現世主義的、機能的なものであり、且つまた、儒教の影響のもとに早くから世俗化しました。また、神道は、思弁抽象化された絶対的価値観(教義)を持たぬがために、極めて寛容性に富み、結果として、通史的に諸文化、諸宗教と習合してきました。

神道は、元来、その原初性の故に、教理、教学より体験を重視いたします。とりわけ、祭祀儀礼を通じた神との感応が最重視され、世俗世界から祭祀の時空間への参入に際しての祓は、祭祀を通じて精神の質的変化が行われることを明示します。神道では、儀式を通じて神と感応し、心に神のエネルギーを受けるという意味でのRefreshmentが最も大切な体験であります。このRefreshmentを繰り返すことを通じて、人々は世俗世界における生存のエネルギーを充填するとともに、倫理的生活に対する自己検証を行います。ここで検証の基準とされる倫理は、全体としては歴史的に制約された相対的なものであり、故に神道においては、絶対的倫理が開示されません。神道において、人が神より(儀礼への参加を通じて)与えられるものは、いわば生活の中での「構え」(Attitude, Einstellung)とでもいうべき基本的な部分であります。そして、それ故にこそ、社会の諸制度、諸価値の変遷に関わらず、通史的に人類の生存にとって不可欠な精神性を提示することができます。

昨夏、機会があり、IARF(International Association for Religious Freedom)の世界大会に参加いたしました。日本で行われた初めての世界大会であり、400名に上る外国人宗教者が参加しました。その殆どが欧米世界の人々ですが、彼らの多くが日本の宗教体験を絶賛し、新しい宗教の可能性を実感したといいます。

また、先般、原子力研究所の古田博士とお話しする機会を得ましたが、博士によれば、21世紀は科学と宗教の時代であり、なかでも神道は、いわば白紙を人間に与えるがごとき宗教であり、人々はその白紙にそれぞれ、人間と世界のあるべき姿を書き込むことを要請されるのであり、それゆえに世界のあらゆる人々にとって、また未来のあらゆる人々にとっても最も重要な宗教となるであろうということです。

私は、神道は、その原始性が、近代化の過程の中で、そして現在を通じて見事に止揚されつつある、最も古く且つ最も新しいタイプの宗教、人類の共存、人類と自然の共存を明示し、人間社会の倫理の最も基礎的で普遍的な部分を体験的に与え続けることのできる、未来生と世界性を併せ持つ宗教である可能性を持っていると考えております。

(以上)

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