宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

経済における公正

2013年4月24日   投稿者:宮司

以下は、IARF世界大会の分科会のために作られた英文のもととなったものです。1999年のバンクーバー大会の折の発表ではなかったかと思います。マルクス思想は遺物となりましたが、貨幣物神論のみは、今でも説得力があると思います。(2013)

 経済における公正

人類は、その発生の当初においては、必要なものを自分自身の手によって調達していた。自給自足経済である。しかし、歴史の進展とともに、生産過程は多くの異なった職業に分化し始めた。特に近代における産業革命以降、科学技術の発達とともに分業化が加速され、また、地理的により広い範囲で行われるようになった。現代においては、生産過程は国境を越えて分業化され、また、より合理的で豊富な生産過程の実現のために、技術の供与や情報の交流が地球規模でなされるようになっている。

 このようなわけで、古代から近代の入り口に至る間、地球上の富の生産量は微増であって、大して変化はなかった。しかし、産業革命以降、富は飛躍的に増産しうるものとなった。また、富の内容も変わった。古くは、富とは衣食住の贅沢とか時間の贅沢、また芸術作品の所有とか人の支配を意味していたが、科学技術の発達は、富として、科学技術の産物による便利で健康的でまた娯楽的な生活を享受することを第一に意識させるようになったのである。そのような生活を約束する物品を人類は大量に生産し、大量に消費するようになった。

 生産過程の劇的な変化が行われていた過渡期において、人類は富の奪い合いのための多くの戦争と植民地支配を経験することとなった。今では、政治と経済を管理する人々は、合理的な生産過程の創造に協力し合うことが、富を得るためには、戦争や植民地支配より効果的であることを充分に知っているが、当時においては、極めて先見的な人々を除いて、多くの人達は、旧来の、富は奪い合うものであるとの盲信から解き放たれていなかったのである。

 貨幣は、生産物の売買を容易にするための道具として発明されたが、それは、同時に、生産過程の分業化を促進するという大きな機能を持っていた。当初、貨幣は金によってその価値が裏付けられていた。そして金の生産量は非常に限られていたため、人類は、より多くの金を得るために、経済的にも軍事的にも多くの闘争を行った。近世以降、経済の急速な地球化の過程の中で、貿易の決済を容易にするために特定の通貨が世界の貿易の基軸通貨となる必要が生じた。19世紀には英国のスターリングポンドが基軸通貨となろうとしたが、人々は未だ金に基本の価値を置いていたため、充分には成功しなかった。第二次大戦後は、米国のドルが、米国の金保有と圧倒的な経済力、軍事力に裏付けられて、基軸通貨となった。しかし、今では、世界貿易の基軸通貨としてのドルの存在は、世界各国が参加する通貨管理体制の成功により保証されている。現在、通貨は、金ではなく、経済的政治的な信用の力によってその価値を保証されているので、金の保有とは関係なく増産が可能となった。すなわち、一国の経済力の増大とともに信用力が増大し、その国の貨幣が増加されるのである。このようにして、貨幣は、真に人類の富を豊かにし、分業を促進するための道具となった。しかし、人々は、あたかも貨幣が富を創り出すための全能の力を持っているかのごとく見做し、より多くの貨幣を欲する。結果として多くの軋轢や闘争、戦争が世界中で起こっている。

 人類は、富と貨幣の真の意味を理解しなければならない。そして世界規模の経済の発展を通して、地上のすべての人々が充分に満たされていると感じるほどの経済水準に達するために、協力して富を増産しなければならない。

 しかし、いくつかの疑問が提出されるであろう。第一に、人間の欲望が充分に満たされる水準が有るのかと。確かに人間の欲望の愚かさは、人々が過去の時代において繰り返し指摘してきた事柄である。それゆえに人々の欲望を節度有るものとするために、宗教の果たす役割は大きい。精神の成熟なくしては、人々は富に対する充足の意識を持つことはできないであろう。宗教は、富の偏在や階級差別を正当化するのではなく、人々に、一定水準以上の経済生活を共有し精神的に満たされた生活を送るために、協力し合うことを勧めなければならない。

 第二に、現在、地球の資源の枯渇、環境の汚染と破壊が人類の直面する最大の課題であり、その問題を更に深刻化させる経済活動の地球規模の進展は止めなければならないという反論があろう。この問題は、しばしば特定の先進国の消費をそのままにして、その他の国々の経済開発を否定するという勝手な考えにすり替えられてしまう。あるいはまた、限られた地球上の資源を自国が確保するために戦争の準備をするべきだという乱暴な意見を導いたりする。このような意見は、既に過去に人類が度重ねて行った、誤解と失敗の悲劇的な歴史を繰り返すことに他ならない。確かに地球は有限であり、だからこそ、人々は充足の意識を共有することが必要なのだ。そして、それは、地球上の人々すべてに、一定の満足と一定の自制を要求することである。科学技術の進歩のもとに、環境の保全に注意しながら、経済的に不十分な地域の開発を継続するとともに、精神の成熟のために、人々に対する教育、わけても宗教教育を行うことが重要となる。世界で最初の環境会議において「持続しうる開発」が目標となったことは、極めて良く理解されることである。

 このようなわけで、宗教者は、人々に富と貨幣の真の意味を知らしめ、それらを得ることを目的とした闘争が非合理であることを理解させ、精神的成熟の大切さと地球上の経済の持続的な開発のために協力し合うことの大切さを理解させるために、最大限の努力を行うべきであろう。それを通じて、始めて「経済における公正」が実現すると、私は考えている。

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