宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

人間の「共存性」と「個人性」について

2024年12月8日   投稿者:宮司

 私は、本ブログ中の「マルクス理論の魅力と限界」のなかで、マルクスの論じた人間の「類的本質」に代わる概念として「共存性」という概念を提唱した。英語では、「coexistency」と訳しておく。類的本質とは、「共存性」を理念化したものである。

 この「共存性」には、生得的なものと理念的なものがあることをそのブログで解説した。生得的なものとは、本ブログ中の「ボノボとチンパンジーの社会」で解説したように、基礎(自然)共同体である家族やムラという集団の中で体験的に会得された。それは、成員が互いに信頼と愛情をもって結びつき、その集団を守るという性質である。

 生得的な「共存性」は、猿人の時代から前近代、すなわち数百万年という長い年月のなかで人類が身に付けた性質であって、それはもちろん現代にも生きている。卑近な例では、テレビドラマなどで犯罪の理由として家族のための殺人とか復讐とかがよく採用されるのは、それが人々の感情に受け入れられ易いということである。

 一方、全人類を対象とする理念的な「共存性」については、前近代においても、宗教や思想の理念として提示されることはあったが、なかなか受け入れられることは難しかった。人間は、身近で具体的に「共存」する仲間のために、他の人間集団と戦争をして殺し合ってきたからである。

 この理念的な「共存性」は、近代に至って、注目を浴びる事となる。それは、理念としての「近代的自我」が確立し、「個人」概念が現実化し、近代的な個人意識の中で「共存性」との葛藤が生まれ、生得的な「共存性」は圧倒的で急速な近代化の中で失われ、代わって理念としての「共存性」の現実化が求められるようになるからである。

「近代的自我」をベースとして啓蒙思想が生まれた。そこでは、「自然権としての自由」が全ての人々に平等に存在するとされた。そうなると社会の中では「万人の万人に対する戦争」という状態が発生する。これを防止するために、社会を構成する人々は互いに社会契約を結び、自由権の一部を放棄し、戦争状態を防ぐものとされた。ここから、個人を基礎とする民主主義が生まれたのである。市場経済も、同様に個人間の自由で平等な取引を基礎として構想された。

 したがって、そこには「共存性」という概念は全く存在しない。個人を主体とした社会契約のみで人々は結びついている。そうなると、近代化された社会では、ムラや家族は解体し、人々は孤独な群衆となり、個人化して、生得的な「共存性」は「近代的自我」と衝突し、悲鳴を上げる事となる。かくして反近代のうねりが近代社会の中に生まれてくる。

 人々は、理念としての「共存性」の現実化を求め、マルクス理論はその現実的な処方箋としての具体的な社会像を描いて見せたから、あっという間に全世界に広がったのである。生憎その内容に不備があったために、20世紀末までにその歴史的な役割が消滅した。

 これらの事情は、本ブログ中の共産主義とマルクス理論へのいくつかの批判的な考察の中で説明した。


 「近代的自我」は、それぞれの独立した人格を生み出すので、それは個性となる。それを「個人性」、英語では「individuality」と呼ぶこととする。

 近代人の最大の矛盾点は、自己の中で、生得的な「共存性」と理念的な「個人性」がぶつかり合う事である。そして、民主主義と市場経済を基本とする近代社会に生きることにより「個人性」は理念的なものから次第に経験的なものとなっていくので、この矛盾はますます激しく避けられないものとなる。生得的な「共存性」は次第に失われ、孤独で社会意識が未熟な個人による犯罪が激化する。つまり「個人性」は経験的になり、「共存性」は理念化していく。

 「共存性」を人間の本質と考え、社会を「共存性」によって結びつけようとする政治家は、全体主義の社会を理想として、「個人性」を潰し、成員の全てが共通の目標に向かって進む社会を夢見る。国家社会主義や共産主義の国家はそのようにしてつくられ、近代社会特有の「個人性」と衝突し、矛盾を露呈し、滅び去った。残存する権威主義の国家群は、「共存性」と「個人性」をどのように調和すべきか結論を見出していない。

 「個人性」と社会契約を主体として構成されている国家は、現在のところ、民主主義の国家群である。そこでは、生得的な「共存性」に基づく反社会的な動きが生まれることもあるが、法と警察権力により治安は保たれている。しかし、人々は近代人の矛盾、社会病理に苛まれている。

 社会契約のかなりの部分を放棄し「個人性」を野放しにしようとする思想もあるが、今のところそのような国家は存在しない。リバタリアニズムがそうである。
 
 グローバル化が進む今日に至って、地球上に住む全ての人間が協力、協調して対処しなければならない問題が山積するようになった。特に地球温暖化に象徴される環境問題である。全人類が協力して解決を図らざるを得ない問題が発生し、そこで初めて、理念としての「共存性」が現実化した。

 前近代の生得的な「共存性」では、全ての人類が共存することはできない。人々は自己の属す集団のために戦うからである。全ての人間が、個性を持って自立し、その上で、理念としての「共存性」を理解し、それを現実と結び付け、実体化しなければ、全人類の課題の解決や平和はあり得ない。

 すなわち、全ての個人が理念的な「共存性」を理解し、それを実体化しようとする明確な意思を持って、新しい世界レベルの社会契約に同意する必要がある。

 それは、地球レベルで人類の「共存性」と個々の「個人性」を両立させるための社会契約となるはずである。

 しかし、人類はいまだにそのような思想を準備できていない。国際連合があり、多くの国際条約もできてきたが、相変わらず、国家を軸とした駆け引きで自分たちのプレゼンスをあげようと対立と戦争を行っている。中には、地球温暖化をまやかしという大統領もいる。コロナウイルスは嘘と言って国民を百万人以上死なせ、挙句は自分も罹患した人物だ。自己のビジネスである火星への移住計画を優先し、地球環境を見捨てようとする人物もいる。

 個々人の覚醒は道半ばである。

 折りしも一昨日、地球温暖化が加速しているとの報告が、科学者からなされたようである。・

 そろそろ人類の命脈も尽きる時かもしれない。(2024/12/08)
 
 

世界-日本