ボノボとチンパンジーの社会
2024年11月18日 投稿者:宮司
人類は猿から進化したと考えられる。より正確に言えば、進化の途中で、ヒトとサルは別れたと考えられる。
現在、地球上に存在する生命種でヒトと最も近いと考えられているのが、ボノボとチンパンジーである。
そのボノボとチンパンジーの生態には、極めて異なる性質がある。
両者とも、群れを作って生活する。つまり社会を形成している。男性、女性、子供、老人の区別があり、家族がある。
最も大きな違いは、チンパンジーは、群れを守るために、他の群れと戦争をすることがある。これに対し、ボノボは他の群れと融和して協調する。
チンパンジーは、人間と接するとき、群れの安全のために、警戒行動をとる。例えば、人間が作った道路を横断するとき、屈強な男性が見張りながら、女性や子供や老人を通す。ボノボは順次横断するが、そのような警戒行動はとらない。
人間集団が他の人間集団に対し、戦争をする場合があり、あるいは融和して一緒に暮らす場合があることを考えると、人間は、ボノボとチンパンジーの両方の性質を持っているということが考えられる。
最近の研究によれば、ネアンデルタール人の一部は孤立して暮らしていて、近親婚を重ねた結果、滅びたと考えられるものがあるという。
日本の古代神話で妻問婚が多いのは、新しい血を求めて異なる部族と融和的に結びつこうとした名残と考えられる。
ところでボノボも、チンパンジーも生産力に大差はない。つまり、衣食住に対応する能力に差はない。個体間の差も無いに等しい。
これは、一般に人類は生産力を高め、余剰生産物ができて、貧富の差が発生してから、財を守るために戦争を始めたのであり、生産力に差がなかった時代は、原始共産制の社会で仲良く暮らしていたとする従来の唯物史観に疑いを抱かせる結果である。
つまり、貧富の差は、殺し合いの原因ではないかもしれない。ヒトは生来、家族や自分が属する集団を守ろうとする性質があるのではないかということである。そのために、殺し合いをしたり、融和的に暮らしたりする。
そうであるならば、生産力を高め、物質的な不足感をなくすだけでは、ヒトとヒトとの殺し合いは無くならないということになる。重要なことは、家族やムラといった自然共同体の内部では殺し合いをしないと言うことだ。しかし、その外の異世界の存在に対しては警戒し、防衛する。
つまり、前近代の人間関係の中では、人間と人間との殺し合いを止めることはできなかった。
唯一、理念としてのヒトの共存を主張できたのが、宗教であった。
時代が降って、啓蒙思想が生まれ、それぞれの人間が個人として認識されるようになり、社会が安定するためには「万人の万人に対する戦争状態」を解消しなければならないという理由から、社会契約の概念が生まれ、民主主義の社会システムが構想された。ここに至って初めて単なる理念ではなく、現実的に人間が互いに認め合って共存していく方法が模索されたのである。
人類は、自然共同体の中で、互いを思いやり、支え合って共存することを感覚的に身につけたが、それは一方では、チンパンジーのように異世界の存在には身構え、場合によっては殺し合うという性質を併せ持っていた。
近代化によって個人の自覚を持った人々が現れ、理論的に、多様性を持った諸個人の社会的な共存の方法を模索した時に、全ての人間が殺し合いをせずに共存できる可能性を見つけたのである。
つまり、人間の生来的に持っている感性と、理論的に共存と平和を求める理性がともに噛み合って、現実的な平和な社会が構想されたのだ。
しかし、今もって人間はその共存の世界を、人類全域に広げることに成功していない。国際連盟ができ、国際連合ができ、防衛以外の戦争が国際条約で禁止され、地球温暖化のような人類全体の課題が国際的に話し合われ、協力の枠組みが作られるようになり、少しずつ少しずつ共存の動きは広がり、そのためのルール作りは進んでいるが、他方では、それをぶち壊すような動きも出ている。反グローバルのうねりがそれである。
実に嘆かわしいことであるが、今、私たちにできることは、それぞれの諸個人の社会意識を高め、地球規模の人類の共存を実現するために声を上げ、1日も早く安心して暮らすことのできる平和な世界を作ることである。(2024/11/18)