宮司のブログ

こんにちは。日吉神社の宮司を務める三輪隆裕です。今回、ホームページのリニューアルに伴い、私のページを新設してもらうことになりました。若い頃から、各所に原稿を発表したり、講演を行ったりしていますので、コンテンツは沢山あります。その中から、面白そうなものを少しずつ発表していこうと思います。ご意見などございましたら、ご遠慮なくお寄せください。

共産主義国家の犯罪

2024年10月10日   投稿者:宮司

 共産主義国家のいくつかの典型的な犯罪を示す。なお、本章の内容は全てWikipediaを参照しているので、根拠資料はそちらに記載されている。


 ホロモドールとは、スターリンの第一次五カ年計画の最中にウクライナで起きた大量の餓死のことである。その五カ年計画は、ソ連が農業国から工業国への転換を図る目的で策定され、1928年から32年に実施された。その中で、ソ連政府は海外から設備機械を多量に買い入れるための代金としてウクライナから無理やり多量の穀物を徴収した。そのために、穀倉地帯であったウクライナでは、人工的な大飢饉が発生し、400~600万人以上が飢え死にしたという。これをホロモドールといい、2024年の現在ウクライナがロシアと死に物狂いの戦いをしている原因の一つである。
 ソ連のクラーク撲滅運動とは、裕福な農民・富農を対象とした追放運動であり、1917年から1933年にかけて行われ、とりわけ1929年から1932年の第一次五カ年計画の期間に多数の人々が被害にあった。1930年から1931年の間だけで180万人以上の農民が「クラーク」として追放され、1929年から1933年にかけて、飢餓、強制労働による栄養失調や病気、そして大量処刑により、約39万人が、あるいは53万人から60万人が死亡したと考えられている。
 大粛清とは、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代後半にソビエト連邦および衛星国のモンゴル人民共和国等で実行した大規模な政治弾圧を指している。大テロルともいう。ソ連共産党内における幹部政治家の粛清に留まらず、一般党員や民衆にまで及んだ大規模な政治的弾圧である。1934年のセルゲイ・キーロフ暗殺事件を契機として開始された。ロシア連邦国立文書館にある統計資料によれば、1937年から38年までに、134万4,923人が即決裁判で有罪とされ、68万1,692人が死刑判決を受け、63万4,820人が強制収容所や刑務所へ送られた。ただし、この人数は反革命罪で裁かれた者に限る。ソ連共産党は大きな打撃を受け、旧指導層はごく一部を除いて壊滅させられた。特に地方の地区委員会、州委員会、共和国委員会が丸ごと消滅したケースもある。1934年に開かれた第17回党大会の時点での1,966人の代議員のうち、1,108人が逮捕され、その大半が銃殺刑となった。1934年時点の中央委員会メンバー(候補含む)139人のうち、110人が処刑されるか、あるいは自殺に追い込まれた。1940年にトロッキーがメキシコで殺害された後は、レーニン時代の高級指導部で生存しているのは、スターリンを除けばカリーニンだけだった。また、大粛清以前の最後の党大会(1934年)の代議員中、次の大会(1939年)にも出席できた者はわずか3%に過ぎなかった。1939年の党の正式メンバーのうち、70%は1929年以降の入党、つまりスターリン期の入党であり、1917年以前からの党員は3%に過ぎなかった。党の討論機関たる大会と中央委員会は、終には政治局さえも1939年以後、スターリンが1953年3月5日に死去するまでめったに開会されなくなった。党指導者を目指してスターリンに対抗していた者は全て公開裁判(モスクワ裁判)で嘲笑の対象にされ、死刑の宣告を受けた。赤軍も5人の元帥の内3名、国防担当の人民委員代理11人全員、最高軍事会議のメンバー80人の内75人、軍管区司令官全員、陸軍司令官15人の内13人、軍団司令官85人の内57人、師団司令官195人の内110人、准将クラスの将校の半数、全将校の四分の一ないし二分の一が「粛清」され、大佐クラス以上の将校に対する「粛清」は十中八九が銃殺であった。ソビエト国内にいた外国人の共産党員も被害者であった。1938年冬には600人のドイツ人が内務人民委員部(NKVD) の手でゲシュタポに引き渡された。1919年のハンガリー革命の主導者クン・ペーラおよび1919年の革命政府人民委員12人が逮捕され処刑された。イタリア人共産党員200人、ユーゴスラヴィア人100人あまり、ポーランド共産党の指導者全員、そしてソ連に逃亡していた5万人ほどのポーランド人の内、わずかな例外を除く全員が銃殺された。コミンテルンは1942年に正式に解体された。しかし、そのスタッフと幹部は、ロシア人であるかによらず、ほぼ全員が1939年の夏までに粛清された。なお、モスクワ裁判の被告のような政界、軍部の大物を除いては、処刑されたという事実さえ犠牲者の家族には伝えられなかったことが多く、家族には「通信の権利のない10年の懲役刑」「獄中で病死」などの虚偽の通達がなされることが多かった。中には、死亡時の詳細が現在も明らかになっていないものも多い。
 スターリンによる弾圧政策では、およそ1500万人から2000万人の人々が、共産主義の名において殺害された。

 大躍進政策とは、中華人民共和国の毛沢東が主導した農作物と鉄鋼製品の増産政策である。誤った政策のために中国全土で5千〜7千万人が亡くなったという。
 中国共産党内で絶対的な主導権を得た毛沢東の指導のもと、1958年5月から1961年1月までの間に中華人民共和国では農作物と鉄鋼製品の増産命令が発せられた。反対派を粛清し、合作社・人民公社・大食堂など国民の財産を全て没収して共有化する共産主義政策を推進した毛沢東は、核武装や高度経済成長によって先進国であるアメリカ合衆国やイギリスを15年で追い落とすと宣言した。しかし、非科学的な増産方法の実施、四害駆除運動で蝗害を招き、政策に反対する多数の人民を処刑死・拷問死に追い込んだため中国国内で大混乱を招き、中華人民共和国大飢饉(推定1500万〜5500万人が死亡)が発生し、産業・インフラ・環境の大破壊や中華人民共和国最少出生数記録更新を招いた。飢餓による死者に加えて、何百万人もの人々が殴打、拷問、処刑によって死亡した。 この運動の期間中に全住宅の30%以上が破壊された。特にチベットでは、ジェノサイドとも形容すべき餓死者数で、その数は1500万人とも3000万人ともいう。この事実は、パンチェン・ラマ10世による1962年の批判書に明らかである。
 その後毛沢東が失権し、代わって国家主席となった劉少奇によって、この誤った政策の後始末が行われた。
 一方、いったん失脚した毛沢東は、権力の回復を狙い、1966年より文化大革命を始めて、劉少奇等を走資派として糾弾し、再び権力を回復したが、この文化大革命中に、2千万人が犠牲となった。1976年に毛沢東は死去し、文化大革命は終息した。
 文化大革命終結後の1978年、中国共産党の新しい指導者となった鄧小平は、文革に関連する毛沢東主義の政策を徐々に解体した。また鄧は、文化大革命によって疲弊した中国経済を立て直すために、改革開放を開始することによって市場経済体制への移行を試みた。毛沢東への権力集中が文革の悲劇をもたらした反省から、鄧小平は「個人崇拝の禁止」を中国共産党の党規約へと導入したが、それは2022年時点で長期政権を目指す習近平共産党総書記の下で有名無実化しており、中国国民による習近平礼賛や個人崇拝の動きが加速している。


 民主カンプチアのポル・ポト政権による国民の虐殺は、最も新しい共産主義の犯罪である。1970年、ロン・ノル将軍と国民議会はノロドム・シハヌークを国家元首から解任させた。シハヌークは新政府に反対し、カンプチア共産党(クメール・ルージュ)と同盟を結んだ。南ベトナムと米国軍によるカンボジア東部(ベトコンの拠点)の占領、米国によるカンボジアヘの大規模な爆撃の後、シハヌークの名声を利用して、カンプチア共産党は国民の大多数を代表する平和主義の政党としてその地位を確立した。
 こうして、国内の民衆の支持を得て、1975年4月にカンプチア共産党を主力とするカンプチア民族統一戦線 (FUNK) によるプノンペン制圧により、民主カンプチアが事実上誕生した。 クメール・ルージュによるプノンペン占領当初、都市部の住民はクメール・ルージュを歓迎したが、クメール・ルージュは都市部の住民を農村での食糧生産に強制的に従事させるために、「アメリカ軍の空爆があるので2、3日だけ首都から退去するように」と都市居住者を地方の集団農場へ強制移住させた。農村の住民もそれまでの住宅を捨てさせられ、全人民がサハコー(人民公社)と言われる幅2メートルから4メートル、長さ3メートルから6メートルの電気もラジオも、水道もない小屋に男女別に強制的に移住させられた。クメール・ルージュは全権掌握後、国名を「民主カンプチア」に改名し、またポル・ポトもこの間に自身の名前を「サロット・サル」から「ポル・ポト」へ改めた。しかしポル・ポトはジャングルから出ず、表向きはシハヌークやその側近であるペン・ヌートを前面に出して、彼らを傀儡として操ろうとした。シハヌークは1975年に復権したが、クメール・ルージュは君主制を回復しようとするシハヌークの計画を無視した。シハヌークはポル・ポトの真意を悟ったが、粛清をおそれて何も出来なかった。ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任し、徹底的な国家の改造を行った。中国の毛沢東思想に影響されたポル・ポトの目的は理論上原始時代に存在したとされる仮説にすぎない「原始共産主義社会」を再現させることにあり、資本主義はおろか都市文明を徹底的に廃絶した。民主カンプチアのもと、通貨の廃止、私有財産の没収が行われた上、教育や医療も否定され、国立銀行を初めとした国家機関は、その全てが廃止された。
 民主カンプチア政権時代には総人口の21%から25%が死亡し、そのうち60%は大量殺戮によるものでカンボジアは人口の3分の1を失ったともされる。
 1976年5月13日、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任した。民主カンプチアの国家体制はポル・ポトが原始共産主義のモデルと考えたカンボジアの山岳先住民族の自給自足の生活を理想とする原始共産主義社会であり、誤った政策によりカンボジアの農業は壊滅的に破壊された。通貨の廃止、私有財産の没収が行われた上、教育や医療も否定され、国立銀行を初めとした国家機関は、その全てが廃止された。国家無神論に基づいてカンボジアで伝統的な上座部仏教はおろかイスラム教をはじめ全ての宗教が禁止され、カンボジア国内のベトナム系、タイ系、中国系、チャム族といった少数民族の存在自体も禁止された。伝統的な家族の形態を解体する一方でクメール・ルージュの許可がない自由恋愛や結婚も禁止された。
 ポル・ポトは、その理想の実現のために、学校、病院、工場を閉鎖し、銀行業務どころか貨幣そのものを廃止する一方、都市住民を農村に強制移住させ、食糧増産に従事させ、中華人民共和国の人民服のように人々に黒い農民服を着用させた。病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても、全く配慮をしなかった。これは世界で動員が繰り返されてきた20世紀の歴史から見ても例のない社会実験だった。民主カンプチアの国民の多くは自動車どころか移動手段を所有することも禁じられて徒歩を強いられていたにもかかわらず、ポル・ポトらは黒い農民服を身にまといつつメルセデス・ベンツを公用車に使用していた。原始社会に戻すために文明の利器を殆ど一掃したため、手作業で運河やダムなどの灌漑施設や、総延長1万5000キロもの巨大な水路が建設された。更に生産された米の多くは中華人民共和国からの武器調達のための原資として飢餓輸出に回されたため、国民の多くは飢餓、栄養失調、過労による死へと追いやられていった。このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは、自身の政策の失敗の原因を政策そのものの問題とするよりも、カンボジアや組織内部に、裏切り者やスパイが潜んでいるためであるとして猜疑心を強めた。このような猜疑心は、後に展開される党内での粛清、カンプチア人民への大量虐殺の大きな要因の一つとなっていった。高度な知識や教養はポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害しており、この政策は歴史的にも反知性主義の最も極端な例とされる。伝統的な家族の形態を解体する一方で組織の許可がない自由恋愛や結婚も禁止された。ポル・ポトは、親から引き離された集団生活の中で幼いうちから組織への奉仕を強いられた10代前半の無知で無垢な子供を重用するようになったため、国内には子供の医師までもが現れて人材は払底を極めた。国民は「新人民」と「旧人民」に区分され、プノンペン陥落後に都市から強制移住させられた新参者の「新人民」はたえず反革命の嫌疑をかけられる一方で長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は1976年まで共同体で配給を受け、自ら食料を栽培できた。革命以前に海外に留学していた学生達に「帰国して新しい国づくりに協力して欲しい。」と大使館を通じて呼びかけ帰国後直ちに殺害した。
 ポル・ポト政権下での死傷者数はさまざまに推計されている。カンボジアでは1962年の国勢調査を最後に戦争状態に入り、以後1975年までの正確な人口動態が不明となりこうした諸推計にも大きな開きが出ている。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万人としたがこれはのちに下方修正された。フランソワ・ポンショー神父は230万人とするが、これは内戦時代の死者を含む。フィンランド政府の調査団は内戦と空爆による死者が60万人、ポル・ポト政権奪取後の死者が100万人と推計している。マイケル・ヴィッカリーは内戦による死者を50万人、ポル・ポト時代の死者を75万人としている。

 以上、共産主義を名目とした国家犯罪を調べると、その恐ろしい規模と虐殺の内容に胸が締め付けられる。そして、その構造的な問題がありありと見えてくる。すなわち、アクトン卿の言葉にあるように「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」のである。共産主義がいかに言い繕おうとも、立憲主義に基づく権力のチェック機構のない政府は凶悪な犯罪国家となる可能性を常に秘めている。しかもそういった国家は賄賂や情実が横行し、支配層が濡れ手で粟の利益を得る非正義の国家であることが多い。
 私が年来属しているiarf(国際自由宗教連盟)は、開放と草の根を大切にしている。秘密主義とエリート支配は犯罪の温床である。


 共産主義や現在の権威主義がいかに民主国家を装おうとしても、この点だけは誤魔化すことができない。そして民主主義国である日本や米国において、このような権威主義や独裁主義をその効率性において擁護する人々は、全て一皮向けばスターリンや毛沢東やポル・ポトのような政治指導者となり、人類に害を及ぼす可能性を秘めている。チャーチルが述べたように、民主主義は、面倒で厄介な政治システムであるが、人類が体験した政治システムの中では、最良の政治システムなのだ。それを決して忘れてはいけない。(2024/10/10)

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