計画経済の悲劇
社会主義や共産主義は生産手段の私的所有を認めないので、経済政策は、自由な市場を持たない計画経済が採用された。
例えば、ソ連の計画経済の特徴は次の通りである。
1 重要な経済活動の国家による独占。農業は例外
2 ヒエラルヒー秩序による組織統合。上層機関による利害調整
3 指令と報告による管理形態の国家規模への拡張
4 計画と統制のための計算体系
計画経済では、政府は、生産目標、すなわち、需要・供給に関わる数量的な決定を政府が策定し、その生産のための手段と配置も政府が決定する。すなわち全ての商品(財)についての生産計画が官僚によって決められるので、それが現実の需要にそぐわないものであれば、深刻な経済危機が発生することになる。
スターリンの第一次五カ年計画は、ソ連が農業国から工業国への転換を図る目的で策定され、1928年から32年に実施された。その中で、海外から設備機械を多量に買い入れるための代金としてウクライナから無理やり多量の穀物を徴収した。そのために、穀倉地帯であったウクライナでは、人工的に大飢饉が発生し、400~600万人以上が飢え死にしたという。これがホロモドールと呼ばれる大飢饉であり、2024年の現在ウクライナがロシアと死に物狂いの戦いをしている原因の一つである。
五カ年計画と同時期に進行していたスターリンによる弾圧政策では、クラーク(富農)撲滅運動、ホロモドール、大粛清、少数民族の強制移住などにより、およそ1500万人から2000万人の人々が、共産主義の名において殺害されていた。
中華人民共和国でも、1958年から毛沢東が始めた大躍進政策の誤りにより、5千万人が餓死したという。
その後毛沢東が失権し、国家主席となった劉少奇等を走資派として糾弾し、毛沢東とその農本主義の権威回復を図った1966年からの文化大革命では、2千万人が犠牲となった。
冷戦の間、ソ連を中心としたコメコン内部でも、ソ連主導で各国の産業の内容が決定され、強制され、西側とは隔絶した地域分業型の経済圏を作った。例えば東ドイツは自動車やカメラ等の製造拠点とされ、製品はコメコン各国で販売された。
このような事情から、計画経済では、主要な生活資材については、少数の商品が同一の仕様で継続的に生産された。国民の希望によって改良されたり、企業競争により多品種となったりすることはなかった。そのため、一定の需要を満たしたのちはそれ以上に伸びず、商品の質も良くなることはなかった。コルホーズや人民公社という共同生産方式を取り入れた農業においても、指導層が主導する一方的な計画生産であるので、その技術改良や増産も、初期の農民が共産党の理想に共鳴した時期を除いて進まなかった。そして競争のない生産方式は労働者のサボタージュを生み、経済の停滞を生んだ。
実は、社会主義者は、労働者と農民のみの社会では、その成員が全て基礎共同体(家族)のような感情によって結びつき、熱心に協力することによって生産力を高め、共産主義の理想社会を実現すると夢想したが、それは不可能であった。なぜなら、国家というものは成員の数が多すぎるので、国家ぐるみで前近代的な共同体を実現することは不可能であるからだ。そこで国民に、家族道徳や国家への忠誠心を教育の中で詰め込もうとした。日本の教育勅語とおなじような道徳教育が行われることとなった。
ハイエクは、社会主義は、原始的集団に見られる感情や心理(団結、利他主義、忠誠心など)によって社会秩序を維持させようとするが、原始的集団で団結や利他主義が可能なのは、各メンバーが身近であるという環境があるからで、これを大規模な相互作用がある近代社会に拡張すると、混乱が生じ、やがては文明も崩壊し、自給自足の部族経済へ逆行することになると主張した。
ここで、原始的集団は基礎共同体、近代社会は機能集団や集列集団が支配的な社会、個人化していく社会と捉えればよく理解できる。つまり社会主義とは反近代の思想であったのだ。
またハイエクは「自由と経済体制」において、権威主義的体制が活動範囲を経済だけに限定することができると信じることは、致命的な幻想であるとし、権威主義的体制による統制は、経済以外の領域にも拡大し、ついには全体主義になるとする。
「専制政治が理念の強制と強要のためのもっとも効果的な手段であり、それ自体が、全社会的な規模での中央計画の実行にとって必要不可欠のものであるからこそ、経済活動の計画化は独裁政治へと行き着く。
プロレタリアート独裁は、たとえそれが民主主義政体であっても、経済活動の管理に乗り出すなら、専制政治と同様に個人の自由を最後の一かけらにいたるまで完全に破壊することになるだろう。」 (フリードリヒ・ハイエク「自由と経済体制」(1938/39))
この他、社会主義・共産主義体制のもう一つの欠点として、計画経済をはじめ社会を支配的に指導する共産党官僚層の我欲による情実や賄賂を主とする腐敗があり、その特権的な地位を争う権力闘争が絶えなかった。
以上に述べた理由から、必然的に計画経済は失敗し、市場経済や民主主義のシステムをある程度取り入れなければならなくなった。つまり、社会の近代化が必要となったのである。
マルクスの予想に反して、社会主義や共産主義の体制は、資本主義以前の共同体的な社会を取り戻そうとする体制として現実化し、強権的な指導層が開発独裁的な政策により無理やり近代化を推し進めようとして、近代社会に馴染まない計画経済や無理な国民教化を実施し、それが経済停滞と国民の犠牲という二重の悲劇を生んだ。このようにまとめることができる。(2024/09/23)