日本

愛知トリエンナーレ

愛知トリエンナーレ

 愛知トリエンナーレという美術展に、慰安婦を暗示する「平和の少女像」という作品が、「表現の不自由展」というコーナーに展示されたことで、様々な反響が起きている。

 美術には、様々なジャンルがあり、その中には時の権力を皮肉ったり、常識を否定するようなものもある。無限に広がる表現の海の中には、展示を中止せざるを得ない運命にさらされるものも、時として存在する。今回は、そういったものを集め、展示することにより、表現の自由が妨げられるという事件はどのような場合に起きるのかを考えさせるために企画されたものである。

 それが、まさに表現の自由を損なう事件に発展したのであるから誠に逆説的ではある。

 どうしてこのようなことになったのか?

 まず、基本から考えていこう。憲法に保障される表現の自由とは、啓蒙思想の前提となった、個人は本来的に自由で平等な存在であるということに淵源する。

 しかし、個人が相互に何をしても自由であるならば、社会は万人の万人に対する戦争状態となり、機能しない。そこで、自由権の一部を互いに放棄する社会契約を結ぶことにより、社会の安定を定める。放棄した自由権の内容は、社会の成員の総意によって作られる憲法をはじめとした法律、殊に刑法によって定められる。自由は無制限ではない。法律に触れるものは否定される。表現の自由もこの制限を超えることはできない。

 しかし、権力は時として個人の自由を制限しようとする。その名目となるのは、社会の安定を阻害するということだ。法律に明示されていなくとも、公序良俗に反するという理由で制限をかける。ここが、表現の自由が最も侵食されやすい点である。

 したがって、法律に明記されない理由によって否定されれば、それは、表現の自由を否定することとなり間違っている。主催者である愛知県知事や関係者が憲法違反であると主張することは、この点では、適切である。

 もう一つ、論点が存在する。トリエンナーレは、あくまでも、美術展である。したがって、美術として社会に提示され、何らかの不適切な理由で展示を拒否された美術品を集めたものが、美術展としての「表現の不自由展」であるはずだ。したがって、本来、美術品でないものが、展示されれば、それは不適切な展示として否定されなければならない。

 「平和の少女像」は、美術品であるか?調べたところ、韓国人の彫刻家夫妻の手によって制作された像であるが、どこかの美術展に出品して展示されていて、不適切な理由で展示を否定されたものであるという経歴は見いだすことができなかった。

 事実は、作成時点から、慰安婦問題を社会一般に主張する目的で制作され、また、そのような目的で使用され。政治的な意見対立の中で撤去となったものもあるということである。これは、美術品ではなく、政治的プロパガンダの道具である。

 もちろん美術品にもそのような政治的な主張が内在するものは存在して良い。代表的なものに、ピカソのゲルニカがある。映画作品まで範囲を広げれば、大島渚の「日本の夜と霧」は、不適切な理由で上映中止に追い込まれているし、チャップリンの作品の何本かは、右派左派両派の攻撃にさらされている。しかし、こういった作品は紛れもなく芸術的な作品として評価されていて、その評価は揺るぐことはない。

 「平和の少女像」は、その意味で、美術としての価値が全く定まっていない。そのような作品を美術展の作品として展示することは間違っている。

 百歩下がって、それが美術品であるかないかは人によって評価が分かれるので、意味をなさないという意見を受け入れるとしよう。

 しかし、そのような評価の不安定な作品を、それも、事実上は政治的なプロパガンダに使用されていて、現在もその政治的な対立が収まっていないことを承知で美術展の展示品としたことは、軽率のそしりを免れない。しかも、公費の助成が行われている美術展である。

 名古屋市長が、現地を視察した上で、不適切と指摘したことも、やむを得ないことと考える。

 付け加えておくと、ここでは、政治的プロパガンダにおける表現の自由については吟味していない。それはもちろん法律に違反しない限り、許されるべきである。しかし、「表現の不自由展」という名称の美術展に持ち込むことは不適切である。

 なお、この展示は、様々な脅迫や中傷によって、中止に追い込まれた。この事実は、日本の社会に法律で否定されないものでも、世論によって否定することができるという空気が存在するという事実を示した。こちらの方が、はるかに問題である。これは、日本の社会が適切な議論によらず、一方的に少数意見を押しつぶそうとする全体主義に染まっていることを示している。これは、個人の自由と平等を基礎とする民主主義を崩壊させるものだ。こちらの方が、はるかに恐ろしい。

 主催者は、簡単に世論や脅迫に屈することなく、きちんと議論を交わして、対応を決めるべきであった。

関連記事

PAGE TOP