国家社会主義の登場
社会(共産)主義に続いて、反近代の装置として登場したのは、国家社会主義であった。
1930年代の日本の論壇は、イデオロギーの左右を問わず、反近代の一色であった。これは、当時の出版物を見れば明らかだ。
日本では、明治初期の啓蒙思想に触発された自由民権運動が憲法の発布によって一応の終焉を見たのち、ヘーゲルの国家論に触発された国民個々の意志を国家の全体意志に統合させることによって理想国家の完成を目指すという国家主義が社会思想の中心となっていった。
大正期には、民間主導の議会政治の実現を目指す民主化運動が大正デモクラシーとして生まれ、政党内閣も誕生したが、昭和に入って国家主義の台頭と共に衰弱していった。
他方、ソ連の成立によって、万国の社会主義化を目指す共産主義思想が流入し、これがやはり国家の変革を基礎として社会を変えていくという思想であったために、容易に国家主義と結びつき、国家社会主義という思想をもたらした。2.26事件の首謀者達が心酔した北一輝の「国家改造法案大綱」はかくして生まれた。
ヘーゲル思想の本元であるドイツにおいても、ワイマール共和国の崩壊に伴い、国家主義と社会主義が結びついた思想が誕生し、それは、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の勢力の伸長を促した。
このようにして、日本とドイツでは、労働者を中心とする社会的弱者の救済を、国家権力による社会主義化によって行おうとする思想が広がっていった。もちろん、社会主義を革命によって実現しようとする人々もいたが、政府の弾圧により地下へ潜り、非合法の共産党として活動を続けた。
マルクスは、ヘーゲルの史観を逆転させて、国民意志による社会主義国家の実現を目指したが、やはりそこには、国家が存在した。そこでは、国家権力を掌握するのは共産党であり、天皇のような旧体制の象徴でもなく、ナチスのような「血と土」による民族の団結でもなかった。その違いがあるのみで、出現したのは国家社会主義と同様の、国家により国民の自由を徹底して抑圧する権威主義の国家であった。
特にスターリンが独裁したソ連共産党は、党内の右派から左派まで全ての反対派を暴力的に粛清した結果確立された完全独裁体制であり、コミンテルンもその支配下に置いた。人権や反対意見のかけらも認めない体制であった。暴力革命を試みたドイツ共産党はコミンテルンと連携したので、スターリンの指示と謀略により浮沈を重ね、ナチスと手を組んで穏健な社会民主主義を抑圧したが、最後には独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵入したナチスにより非合法化されてしまった。
実は、ソ連型の国家とナチス型の国家とは、ヘーゲルの思想から生まれた双子の兄弟のようなものだ。ともに、啓蒙思想に基づく、個人の自由と平等を基礎とする民主主義社会の実現よりも、国家権力による強制的な社会変革を選んだのだ。個人よりも全体を優先するという意味では、まさしく反近代の動きであり、擬似共同体の論理を国民に押し付けた。
しかし、前著でも論じたように、近代化は、政府が全く関与せずに市場の動向に任せた場合、特に発展途上国では、間違った方向に進んでしまうことも事実だ。その意味では、最初は国家の強力な指導によって、社会資本と市場のルールを整備し、産業を育成するという方法は近代化の為には極めて効率的である。
古くは日本、そしてマレーシアやシンガポールやインドネシアやロシアや中国やベトナムはそのようにして近代化に成功した。いわゆる開発独裁である。その後、近代化の成熟とともに市場経済と民主主義を政治に取り入れ、民主化の軟着陸に成功した国々は、さらに発展してグローバル化の波に乗っている。一方、権威主義を捨てきれない国々は、その社会に不安定要素を抱えたままで、現在に至っている。
権威主義の政府は、民主主義の政府に比べて、官僚の動きがよく、政策は効率的に国民に伝わり、意志決定も早い。しかし、他方では、国民の自由と平等への欲求は抑圧され、無視される。また、一旦指導者が誤った決定を下すとき、その修正は容易ではない。
これに対し、民主主義の政府では、政策の決定と実行には多大の時間を要し、極めて非効率的である。政府の指導層も法律を遵守しなければならないので、癒着や不正は起こりにくい。国民の不満は少ない。しかし、他方では、あらゆる言論が自由であるので、虚偽主義やポピュリズムが発生しやすい。
どちらも一長一短はある。しかし、歴史的に見れば、チャーチルの有名な言葉を出すまでもなく、民主主義の政府の方が優れている。それはまた、権威主義の政府指導層の家族の多くが民主主義の社会で暮らしていることを考えれば明白である。暮らすに良いのは民主主義の社会であり、権力の濫用によって財を得やすいのは権威主義の社会である。(2024/09/15)