初期マルクスの誤謬
社会主義の父と評されるカール・マルクス(1818-83)には、多くの著作がある。主に、最初の著作とされる、「ヘーゲル法哲学批判」から「経済学哲学手稿」までが初期の著作とされ、「賃労働と資本」以降が後期の著作とされる。
「ヘーゲル法哲学批判」は、フォイエルバッハの人間主義の立場からヘーゲルの国家観を批判したものである。つまり、初期のマルクスは、フォイエルバッハの人間主義的唯物論に深く感銘を受け、人間の類的本質こそが人間社会の本来の姿であり、その類的本質が疎外されている社会の現実を改革し、類的本質が全面的に解放され、人間が互いに協力して生活する姿こそが理想でなければならないとの思いに至ったのである。なお、フォイエルバッハは、「神」(God)は、人類の類的本質の疎外態であり、究極には人間は神となると説いたことは興味深い。
この人間疎外の回復は、まさに、近代化によって押し潰されようとしている前近代的な人間社会である自然共同体(家族・ムラ)を哲学的に解釈して、規模の大きな共同体を理想社会としたものだ。
しかし、社会学の集団論が出現するのは、20世紀になってからであり、当時のフォイエルバッハもマルクスも知る由もなかった。その兆しとも言うべきテンニースの「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」が出版されたのは1887年、マルクスの死後4年の後である。
テンニースは、その著作「社会学者の見たマルクスーその生涯と学説」の序文の中で、マルクスから多大な影響を受けたことを告白している。事実、前近代に支配的なゲマインシャフトから、近代化後のゲゼルシャフトを経て、再びゲマインシャフト的な関係性に基いたゲノッセンシャフトを理想社会と考える彼の理論は、社会主義革命によって人間疎外の回復を図ることを主張したマルクスの理論と近似している。なお、ゲノッセンシャフトとは、私が、将来の人間社会の鍵概念として提唱している意志共同体とほぼ同じである。違うのは、私が小規模の集団に限っていることである。また、テンニースが主張したゲノッセンシャフトは、その後、組合管理方式という社会主義理論に結実している。
二人とも、商品生産の発達が人間疎外を高めるとしているが、それは正しい。なぜなら、生産力の発達は多量で多様な商品の生産を可能にし、商品の売買という経済行為は個人を基礎とするが故に、社会の個人化を促し、機能集団と集列集団が支配的な近代社会をつくるからだ。近代化=都市化=個人化の図式である。
しかし、そうであるならは、たとえ社会主義革命とそれに続く共産主義社会の実現を見ても、生産力の発達に伴う商品生産の発達と社会の個人化は避けられず、人間疎外は解決しないことになる。
マルクスは、生産力の発展の究極として、人間が賃労働から解放される社会を夢想した。必要な時に必要なものが自由に手に入る社会である。そのためには、生産力は限りなく発展し続けなければならない。社会主義から共産主義に至る過程でそうなると予言したのだ。
しかし、COMECONに属したソ連や東欧諸国、中国のような共産党に支配された社会(共産)主義国家では、当初の一時期を除いて生産力は伸長せず、現実には不可能であることが歴史的に証明された。
逆に否定されたはずの資本主義経済システムは、21世紀に入り、グローバル化に伴う生産力の爆発的な成長と急激な技術革新を実現し、AIとロボットによる賃労働の肩代わりが視程に入ってきた。必要な時に必要なものが自由に手に入る社会が近づいたのである。
そして生殖欲と物欲から解放された人間が、近代化に伴う人間疎外から解放される道筋が見えてきた。このことは、前著「グローバル化と現代社会」に詳しく述べた。 (2024/09/06)